【筑摩書房】
『気流の鳴る音』
−交響するコミューン−

真木悠介著 



 私はこれまで読書家を自称する者として、数々の本を読んできたが、そうした体験を通じてあらためて思うのは、世のなかは私の想像をはるかに超えて広大であり、じつにさまざまな人たちが、さまざまな環境のもと、それぞれの価値観や信念にもとづいて生きているということである。私という個人がその生涯に体験できること、見聞きできることなど、たかが知れている。読書という行為は、言ってみれば言葉をつうじて多種多様な人たちと出会い、対話することと等しい。そこに時間や距離といった制限は無い。私たちは本を媒介に、想像の翼を広げて、どこまでも軽やかに飛んでいくことができる。それこそ月の裏側や海底深くにも行けるし、遠い過去の有名人とだって会うことができるのだ。

 私にとって本を読むということは、何かにつながっていくということでもある。その「つながる」先は、ときに本の書き手であったり、作者が生み出す世界であったり、その登場人物やそこで起こる事件であったりするのだが、この「つながる」という感覚こそが、私を長く読書という趣味と結びつけてきたと言っても、けっして過言ではないと思っている。

 今回紹介する本書『気流の鳴る音』は、とくに本や読書といった話題と結びついているわけではない。著者の言葉を借りるなら「コミューン論を問題意識とし、文化人類学・民俗学を素材とする、比較社会学」ということになる。そして「比較社会学」というからには、二つ以上の社会を比較対象とするわけだが、そのひとつが、私たちがあまりにも自明のものだと思い込んでいるがゆえに、そもそも意識にすら上ってこない近代文明社会、つまりは私たちが今生きている、人間中心の社会であるとすれば、もうひとつは「土着」という要素でくくられる社会ということになる。本書の大半を占めているのは、メキシコ北部に住むインディオ、ヤキ族の老人ドン・ファンの生きる世界を紹介した人類学者カスタネダの著作の解釈であるが、そこから見えてくるのは、人と人とのつながりだけでなく、人と自然とが、まったく平等な存在としてごくふつうにつながり、交流していく美しい世界だ。

 テクノロジーの発達によって人間は、べつのいっそう強力な「拡大された感覚器」をもつ。――(中略)――けれどもこれらのテクノロジーがけっして補償しなかったものは、おそらく共存する全体性へのバランス感覚のようなものだ。

 この書評の冒頭で、私は自身の読書経験から、多様な価値観、多様な世界観との「つながり」について言及した。読書はたしかに素晴らしいものであるという思いは、今も変わりはないが、逆に言えば、自分と他の何かとの「つながり」を感じるのに書物という言語化されたツールに縛られている、ということでもある。私たちは言葉によって他者とのコミュニケーションをはかる生き物であり、そんな私たちが形成する社会、こと個人が個人であるという認識を土台とする近代以降の人間社会は、あくまで言葉を話すという「能力」をもつ人間を中心とする社会として、周囲の自然を自分たちの都合の良いように、一方的に作り変えていくことで発展していった。

 こうした人間中心の社会のありように対する反省や批判は、それこそ物語の要素としてさえも、もはや陳腐となりつつあるほどありふれた命題のひとつであるが、本書はけっして近代文明そのものを否定しているわけではない。ドン・ファンの生きる土着の社会を、あくまで学問の素材のひとつとして取り上げることで、私たちにとってあまりにも見えにくくなってしまった近代社会を相対化し、凝り固まった私たちのもつ自明の価値観に一撃を加えること――著者の論はそこを出発点として、次の社会のあり方、これからの人々の生き方がどうあるべきなのかについて模索していく。今から三十年以上も前に書かれた本書であるが、そのテーマは古びるどころか、どこか行き詰まり、閉塞しているように思える現代社会のありようを見つめなおすという意味では、今という時代にこそ輝きを増してくるところがあると言える。

 ドン・ファンが知者の生活を「あふれんばかりに充実している」というとき、それは生活に「意味がある」からではない。生活が意味へと疎外されていないからだ。つまり生活が、外的な「意味に」による支えを必要としないだけの、内的な密度をもっているからだ。

「ナワール」と「トナール」、四つの自然の敵としての<恐怖>、<明晰>、<力>、<老い>、あるいは「世界を止める」「意志を意志する」「コントロールされた愚かさ」といった独特の単語が頻出する本書は、けっして単純なものではない。だが、本書を読みすすめていくことでおのずと感じとれるものがある。それは、ある種の「絶対」のものとしてあった主観の世界が、じつは数多くある多様な世界のひとつでしかなく、個人は個人として確固と存在するのではなく、周囲をとりまく自然とのつながりによって存在させられている、そこにあることを許されているという感覚だ。

 たとえば、人は何のために生きるのか、という問いかけは、誰もが多かれ少なかれぶちあたることになる命題であるが、その生きる目的を、結果として到達するべきものとして設定すること自体、すでに「意味」にとらわれているということになる。なぜなら、そうした考えは突きつめていけば、必ず自身の生そのものの無意味さへと結びついてしまうからだ。人はどうせいつか死ぬというのであれば、そもそも生きることにどんな意味があるのだろう、ということである。

 自分の生が自分だけのものではない、という思いは、人に生きる力をあたえてくれる。そういう意味で、人はそもそも他者との「つながり」を求めずにはいられない生き物でもある。本書はその「つながり」を人間のみに限定するのではなく、もっと広い意味で用いているところがある。自身の主観が絶対だという意識から一度解放されれば、そこにはじつに多種多様な世界が見えてくる。そしてそのとき、私たちがこれまでいかに自身の生きる社会の常識に凝り固まり、盲目となっていたかがわかってくる。生きることの真の意味と、死ぬということの恐怖――けっして意味を求めて奔走するのではない、もっと別の生き方の可能性が、本書のなかにはたしかに息づいている。(2010.04.07)

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