【東京創元社】
『ソフィー』

ガイ・バート著/黒原敏行訳 

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 ふだんから自分の身近にいる家族や親しい人が、ほんとうはどんな人物で、何を考えているのか、という興味は、おそらく誰もが一度は心にいだくたぐいのものであるが、そうした興味をいだくことと、その疑問を満たすために行動をおこすこととのあいだには、大きな隔たりがある。なぜなら、一度言葉に出してしまったことをけっしてなかったことにすることができないのと同じように、秘密なり隠し事なりを知ってしまったら、もう以前の状態に戻ることはできないからだ。たとえ、以前の関係がどれほど心地よいものであったとしても、以前と同じような心境で相手のことが見られなくなってしまう――そんな秘密というものも厳然として存在する。

 物事の真実はときに残酷で、知ることで誰かをひどく傷つけることもある、というのは、このサイトの書評をつうじて何度か繰り返し語ってきたことのひとつであるが、それは秘密を知る以前の世界が美しく輝いていればなおのことだ。相手に秘密があるとすれば、秘密にしておきたいだけの理由があり、秘密を知りたいという意思にもそれだけの理由がある。できることなら、以前の美しいままの世界を保ちたい、だが、それでもなお秘密を知り、真実を知りたいと行動する人の心を思うとき、私はそこに人間であるがゆえの業というものを考えずにはいられなくなる。

「姉さんがなにを望んでいるのか、ぼくにはまるでわからなかったよ。ぼくと姉さんとでは物の見方が違ってた。同じようでいて、じつは違ってたんだ」

 今回紹介する本書『ソフィー』は、おもにふたつの謎をめぐる作品である。ひとつは、現在におけるマシューの状況について。どこか郊外の古い空き家の台所で、マシューという名の男とひとりの女性が対峙しているのだが、彼女は両手を粘着テープで縛られ、顔を殴られているという状況だ。あきらかに尋常ではない――マシューが無理やり彼女を連れてきたと思われるような緊迫した状況が、いったいなぜ発生しているのか。そしてもうひとつは、彼が「ソフィー」と呼ぶ女性について。過去の追憶という形で描かれる彼女はマシューのふたつ年上の姉であり、幼い頃のマシューにとって世界のすべてと言っていいほどの信頼を寄せていた人物のことである。

 現在と過去を行き来しながら展開していく本書を読んでいくとわかることだが、マシューの過去の記憶――姉ソフィーとともに過ごした思い出は、郊外の雄大な自然やひと気のない採石場、無人の納屋につくった秘密の部屋といった、いかにも子ども心をくすぐる魅力に溢れた環境も相まって、じつに微笑ましく美しいものであるのだが、同時に、成長したマシューの視点からはその環境の異質さもまた見えており、それがいくつもの謎を読者に提供する。たとえば彼らの母親の、まるで育児そのものを放棄しているかのようなその存在感の無さや、仕事の関係なのか滅多に家に寄りつかない父親のこと。マシューにとってソフィーとは姉であるとともに母親も同然であり、じっさいソフィーは母親の代わりに家事全般を仕切っているようなところがあった。

 非常に高い知能をもち、小さい頃からさまざまな知識を身につけていきながら、その頭の良さを他人に悟られないよう、わざとテストの解答を調整したりする一面をもっていたソフィー、幼いマシューにとっては完璧さの象徴でもあった彼女であるが、両親、とくに母親との関係や、暗号で書かれていて読めないノートなど、あきらかに普通ではない何かが彼女をとりまいていた。まだ何も知らない子どものときには気づかなかったいくつもの違和感に、成長したマシューは気づきつつある。はたして、ソフィーと過ごしたあの過去の思い出は、本当はどんな姿かたちをしていたのか、そしてその秘密が、今の彼の引き起こしている状況とどのような関係をもっているのか――それこそが本書最大の謎にして、最大の読みどころでもあるのだが、より重要なのは謎そのものやその真相ではなく、真相を知りたいというマシューの気持ちのほうにこそある。なぜなら、それらの謎を解き明かしていくことが、そのままソフィーという、姉であり、もっとも身近な身内でありながら、ある意味でもっとも遠い場所にいる人を理解するための方法であるからに他ならない。

 だが、真に他人を理解するということが、本当に可能なのだろうか。

 たとえば、殺人事件があったとする。ミステリーにおいて、探偵は事件現場のトリックを解き明かし、真犯人が誰なのかを特定することができる。それは、人間の知恵と洞察力の勝利でもある。だが、いくらすぐれた探偵であっても、犯人の動機についてはあくまで推測でしか語ることができない。相手が私たちとはまったく異なる世界を見ていた「天才」であれば、なおのことそうである。

 過去の追憶のなかに生きるソフィーは、たしかにマシューとは異なる世界を見ていた。それは、あらゆる意味でふつうの人だったマシューには、けっして手の届かない世界だ。だが、それでも彼らは姉弟であり、お互いに寄り添うように生きてきた。理解したいと誰よりも願いながら、けっしてそれが叶わないという苦悩と焦燥――その思いに触れたとき、私たちははじめて、一見美しさに彩られたマシューの過去の追憶のなかに蠢く不穏な影に気づくことになる。そしてソフィーが、マシューの目に見える世界に対して何を望んでいたのか、ということも。

 人よりはるかにすぐれた頭脳をもつがゆえに、見えてくる世界がある。知識はその人の世界を大きく広げるための武器だ。だが、それらが見せてくれる世界の真実が、かならずしもその人の幸福とつながっているわけではない。賢すぎるがゆえの不幸、理解できないがゆえの不幸、そしてお互いの意思の、けっして交わることがないがゆえに生まれる不幸――その姿は、怖ろしいほどに哀しく、儚くて、しかしだからこそ美しく尊い。その独特の世界を、ぜひ堪能してもらいたい。(2011.09.25)

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