【新潮社】
『ソーネチカ』

リュドミラ・ウリツカヤ著/沼野恭子訳 



 私がインターネット上で書評サイトをはじめたのは、自分が本好きであったことはもちろんのこと、ちょうど個人サイトが隆盛しつつあった時代ということで、このネットの世界であれば、自分にもそれなりに本の情報を発信していくことができるかもしれない、という思いがあったからに他ならないのだが、非常に幸いなことに、サイトは今もなおつづき、これまで多くの本好きな方々と知り合うことができた。そして、自分と同じようにサイトやブログを立ち上げた方々が、その人生において、たとえば結婚という一大イベントなどを経て、サイトの更新内容が変化していったり、まったく更新できないままになっていったり、あるいは閉鎖ということになっていったりするのを見守ってもきた。十年ひと昔、と感慨にふけりたいわけではないのだが、やはり十年近くもひとつのサイトをつづけていれは、リアルの人生においてもさまざまなイベントや転換期が訪れたりするものだろうと思うし、またその過程において、その人の人生で本当に大切なもの、中心に据えるべきものが移り変わっていくのはごく当然のことと言える。

 変化というのは、もちろん私自身の身にも起こりうることであり、変化を「成長」と捉えるならば、人というのは常に少しずつ変わっていくことを運命づけられた生き物でもある。変化していくというのは、けっして悪いことではない。だが、何もかもが変わっていくなかで、ふと昔と変わらずにありつづけるものを見つけたときに、どこか心のなかでホッとするものがあるのは、私だけだろうか。

 ソーネチカは、森羅万象におよぶこの会話の炎に照らされて心あたたまり、敬虔な気持ちになって、たえずこうつぶやいていた。「なんてこと、なんてこと、こんなに幸せでいいのかしら……」

 本書『ソーネチカ』は、ソフィヤ・イオシーフォヴナ、つまりそのタイトルにもなっているソーネチカという女性の生涯を描いた作品であるが、物語の中心人物たる彼女のことを説明するのは、なかなかに難しい。幼いころから本の虫で、ともすると現実と物語の境界がつかなくなるような、本に対する感受性に鋭いところのあったソーネチカは、やがて古い図書館の地下にある書庫ではたらくことになるのだが、そこに訪れたロベルト・ヴィクトロヴィチに見初められ、結婚することになる。

 ロベルトは1930年代のはじめにフランスからロシアに帰国した芸術家で、その方面では伝説的な大画家として名を馳せていたものの、反体制の烙印を押され、五年間を収容所で過ごすという経験をもっていた。結婚後、彼とともに残りの刑期をつとめるために流刑地を転々と過ごすことになったソーネチカの生活は、けっして安楽なものとは言えず、生きていくのに最低限必要なものにさえ事欠くようなありさまであったが、そうした苦労話や暗い話題について、けっして叙情的になることなく、あくまで距離を置いたうえでひとつのエピソードとしてさらりと書かれているのが、本書の特長のひとつだと言える。

 本書の舞台となっている1940年代以降のロシアと言えば、今はなきソヴィエト連邦の時代であり、とくにスターリンの独裁体制という意味では、生きること自体が過酷な時代であったと言っても過言ではないのだが、ソーネチカという女性を中心に展開していく人生の物語において、そうした時代の奔流、激しく変化する情勢は、まるでその頭上をただ通り過ぎていくだけのような印象を読者に与える。そして、そうした本書の傾向は、ひとり娘のターニャが生まれ、自由奔放に成長をとげ、やがて孤児である美少女ヤーシャを同じ家に住まわせるようになっても変わることはない。

 まるで、水面上はどれだけ激しくゆらいでいても、あくまで穏やかな流れがたもたれている水底にいるかのように、ソーネチカの人生はどこまでも静かで、穏やかだ。変化しないでいること――私がソーネチカの生涯に感じたその静謐さ、そしてそこから感じられる心の安らぎは、彼女のなかにたもたれているものの不変さに拠るところが大きい。むろん、それはソーネチカが現実を拒絶しているというわけでも、また現実世界に無関心というわけでもない。むしろ、彼女は自分自身の境遇を省みることなく、夫や娘をどこまでも支え、立てていこうとさえする。じっさいに、子どもの頃はあれほど好きだった読書も、結婚生活と子育てという現実にとって代わられていき、ほとんど鳴りを潜めるようになっていく。夫も娘も読書にはほとんど興味を示さない以上、彼女にとって自身の趣味はすでに二の次、という意識をそこにとらえることができる。

 ソーネチカという女性のことを語るのは難しい、と書いた。それは、どんな境遇のときにも――普通の人であれば手ひどい裏切りととらえ、おおいに悲しみ、怒りを爆発させてしかるべき場面においても――何かしらの喜びや幸せを見つけ出してしまう彼女の性質が、あまりに人間離れしたものであると感じられるからに他ならず、私のようなすれっからしの読者には、何か裏があるのではないか、どこかに言外のものをふくんでいるのではないか、とどうしても勘ぐってしまうほどのものなのだが、重要なのは彼女がどんな性格をもっているかというよりも、どんなときにも変わらない何かがある、という要素のほうだと私はとらえている。その証拠に、物語のラストになって、家族とのかかわりのなかで何年も放っておかれた、読書という彼女自身をつかさどる要素が、けっして消えてなくなったわけではなかったことを、読者は知ることになるのだ。

 くり返すが、変わらないというものはない。ほぼ十年つづいてきた私のサイトにしても、私自身においても、少しずつ何かが変化していっているし、その変化を止めることはできない。では、本の世界からまぎれもない現実のなかを生きて、最後には再び本の世界に戻っていったソーネチカは、はたしてどうだったのだろう。けっして平坦というわけではなかったその人生において、彼女のなかで何が変わり、そして何が不変でありつづけていたのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.05.03)

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