【東京創元社】
『泥棒は几帳面であるべし』

マシュー・ディックス著/高山祥子訳 



 私の現在の職業はただの会社員だが、職種としては社内SEということになっている。コンピュータを使った社内のシステム開発や管理というのがおもな業務になるのだが、この手の仕事については、部外の人たちはもちろん、ときには同じ部内の人であっても、その仕事の全容を把握しているわけではなく、「何をしているのかよくわからないことをしている」というのが大半の認識であったりする。そのいっぽうで今の時代、会社の業務のほとんどはコンピュータを介して回っているところがあり、もし何らかのシステム的なトラブルがあれば、下手をすれば業務そのものがストップすることすらありえる。きちんと動いてあたり前、そうでなければとんでもない問題に発展する――それが今の会社における私の立場だと言える。

 営業職のように明確な達成基準があるわけではなく、また目立った活躍の場があるわけでもないのだが、それでも何らかのトラブルの兆候を事前に発見し、そうなる前に手を打つことができたときなどは、妙な達成感を覚えたりもする。誰も知らないところで、自分の力がなんらかの役に立ったという感覚は、私にとっては自分への自信を維持するためにも重要なものとなっている。だがそのいっぽうで、そうした「活躍」が会社に対する業績として認められることは、じつはあまり多くない。なにせ、正常に動いてあたり前なのがシステムだ。それは充分に認識はしているのだが、できることならそうした業績をもう少し評価してほしい、という気持ちがあることも事実である。

 本書『泥棒は几帳面であるべし』に登場するマーティンは、ある意味で今の私と似たような立場の仕事をしていると言っていい。もっとも、そのタイトルからもわかるように、彼の職業は「泥棒」であるのだが、本書を読んでまず気がつくのは、彼の「仕事」に対する徹底したプロ意識であり、また自身の仕事のスタイルに対するこだわりの強さである。

"なくなったのが気づかれるようなら、それは盗らない"

 泥棒というのは、他人の所有する物を勝手に、あるいは無理やり奪い取る行為、あるいはそれを行なう者のことで、言うまでもなく犯罪行為にあたる。マーティンもまた、そうした法に触れる行為を生業としている者であるが、彼の仕事における最上位のルールとして自身に課しているのが、上述の引用文である。このルールの意味するところはただひとつ、それは、自分の泥棒という行為の痕跡のいっさいを残さないということだ。そしてそれはひとつの必然として、被害者にさえそれと気づかれないようにする、ということでもある。盗まれても気づかれないものだけ盗む――そのためにマーティンは、事前の徹底的な調査をけっして怠らない。

 ターゲットとなる家については、その選定段階から厳正な基準を設けて、それにひとつでも外れるようであればけっしてそこには近づかない。家の間取りやそこにある物品はもちろん、住人のありとあらゆる情報を納得のいくまで調べあげ、あらゆる不確定要素を排除したうえで盗みに入る。慎重にも慎重を重ねてチェックを繰り返し、想定されるかぎりの不慮の出来事に対してその対策を講じ、万難を排したうえで盗みを決行するという彼のスタイルは、極端なまでの几帳面さと、鉄のような忍耐力、我慢強さがあってはじめて成立するたぐいのものである。そしてこのマーティンの犯罪スタイルこそが、本書序盤の読みどころとなってくる。

 「気づかれなければイカサマじゃない」というセリフではないが、誰にも犯罪だと気づかれない犯罪は、もはや犯罪とは言い難いものがある。そうした行為を繰り返すマーティンの手口は、私たちの知る犯罪者のイメージとは異なるものがあり、だからこそ興味深い。じっさい、彼は盗みに入る家の住人のことを「お得意」と呼び、期間をあけてではあるが定期的に訪れている。マーティンはそんな「お得意」を何十とリストアップしており、しかもこの行為をはじめてから九年近く、まだ一度も捕まったことがない。とにかく自分の犯罪行為を匂わせるあらゆる事柄を吟味し、住む家や偽の職業、ネット上での別人格さえつくりあげ、犯罪で使うラテックス製手袋を見とがめられたときの言い訳のために、わざわざ家の庭にウルシを植えたりといった用意周到ぶりである。それはもはや仕事や犯罪というよりは、彼自身のライフスタイルともいうべきものにまで昇華されており、それゆえに彼の泥棒としての人生の大半は、完全に予想可能な範疇に収まるものとなっている。

 およそ小説というものは、あらゆる形式を許容する懐の深さがあり、なかには人間がひとりも登場しないような作品もあったりするのだが、ごく一般的な見解として、小説とは「変化」を書くものだとされる。誰かと誰かが出会って、そこからお互いの何かが反応し、思わぬ変化をもたらしていく――だが本書のマーティンの場合、その生活のほとんどが彼だけの世界で完結している。「仕事」をするときに思わぬ誰かと出くわすことはなく、彼の行為のすべてを知る者は、彼ひとりしか存在しない。ふだんの生活においても自身が犯罪者であることの要素を隠すため、何気ない会話ですらあらかじめ用意しておき、想定外のことをできるだけ避けるような生き方を崩さないマーティンは、ある意味で不変の世界にいると言うことができる。

 極度な几帳面さという性格をもつマーティンにとって、それは安心して暮らしていくためのものであり、そんな生活を楽しんでいる部分があることは事実だ。だがそのいっぽうで、だれも自分の本当の姿を知らないこと、腹を割って話をできる者がただのひとりもいない――それこそ、幼い頃からの友人だと確信しているジムでさえ、そのなかには含まれない――という孤独になかばうんざりしていることも、物語が進むにつれて少しずつ見えてくる。言うなれば、彼のライフスタイルは安定してはいるが、彼の心はむしろ揺れ動いているのだ。

 このマーティンの揺れ動く心は、その完全に制御された人生とは裏腹に、ひどく人間的だ。そしてその心の揺れ動きが、この作品における「変化」を引き起こす。たんなる情報収集のためにすぎなかったことが、いつしか「お得意」の人生に深く触れることになり、そしていつしか、泥棒であるマーティンだからこそ知りえた「お得意」の危機をなんとかしようと決意するという「変化」だ。それは、およそ私たちのよく知る憎むべき泥棒であれば、ありえないイレギュラーである。

 マーティンは自分がこの職業を選んだのは、じつはより尊い使命をおこなうための手段だったのではないかと考え始めていた。――(中略)――生活のためにお得意の家に入っているが、同時に相手の生活を改善しているのかもしれない。

 犯罪行為はいつかは罰されるべきだ、というのが私たちの基本的な考えではあるのだが、かならずしもそうとばかりは言い切れないものがあることを、本書は教えてくれる。似たような作品として、ロイ・ヴィカーズの『フィデリティ・ダヴの大仕事』があるが、それとはまた違って意味で、マーティンのことを応援したくなってくるのが本書である。はたして彼の犯罪行為がどのような結末を呼び込むことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2014.04.06)

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