【本の雑誌社】
『謎の独立国家ソマリランド』
−そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア−

高野秀行著 



 日本の抱える負債が千兆円を超えたという話がある。このまま借金が減らなければ、いずれ国家として破綻するという、きわめて悲観的な論調も耳にする。だが、国家が破綻するかどうかをもし真剣に考えるのであれば、その前にそもそも「国家とは何か」という、ラディカルな命題と向き合う必要が出てくる。たとえば私は、日本という国で生まれた日本国民であり、日本という国があたり前のように存在することに何の疑問もいだいてはいないが、では「日本」はいつ、どのような経緯をへて「国家」として成立することになったのか、じつ驚くほど何も知らないという事実に驚愕する。どのような条件が満たされれば国家となるのか、誰か、どこか国家を認定するための機関でもあるのか。そのあたりが見えてこないかぎり、国が破綻するかどうかを予測することなどできやしないし、仮に破綻したとして、それが私たちにどのような影響を及ぼすことになるのかも見えてはこない。

 ずっと以前に読んだ村上龍の『希望の国のエクソダス』は、全国六十万の中学生によるネットビジネスが国際的に、日本という国以上の「信用」を勝ち取っていくという話であるが、案外人というものは、国家という枠組みに頼らずとも生きていけるものなのかもしれない、という気持ちが今はある。そして、わざわざフィクションの例を挙げなくても、この現実世界には、きちんとした国家の力の及ばないような場所、あるいは国家としての体を成していないような場所が無数に存在するし、そうした場所でも人々はそれなりに暮らしていけていたりもする。今回紹介する本書『謎の独立国家ソマリランド』は、そんな国家として認められていない国家の旅行記である。

 ソマリアは報道で知られるように、内戦というより無政府状態が続き、「崩壊国家」という奇妙な名称で呼ばれている。
 国内は無数の武装勢力に埋め尽くされ、戦国時代の様相を呈しているらしい。
――(中略)――いったい何時代のどこの星の話かという感じがするが、そんな崩壊国家の一角に、そこだけ十数年も平和を維持している独立国があるという。

 著者をして「地上のラピュタ」と称させている独立国家の名前を冠した本書であるが、そのサブタイトルを見ればわかるように、じっさいにはソマリランドだけでなく、ソマリア共和国内で同じように独立国家を宣言するプントランド、あるいは「リアル北斗の拳」状態となっている南部ソマリアの都市モガディショ(ソマリア共和国首都)などにも足を運び、そこで見聞きしたことがまとめられている。しかし、早稲田大学探検部の頃から不思議なこと、秘密や神秘に目がない著者がまず興味をもったのがソマリランドであることは言うまでもなく、だからこそその名前がタイトルになっている。

 もはや国家としての体をなしていないソマリア内部にあって、平和を維持しているだけでなく、民主化への移行に成功し、大統領選挙さえ行われている独立国家――国際社会ではその存在が認められていない、情報もきわめて少ない、なんだかよくわからない国に対する興味ゆえに、体当たりのように現地へ向かう著者のモチベーションの高さをうかがわせる本書であるが、それゆえに私たちは本書をつうじて、たんなる情報収集だけでは絶対に見えてこないソマリアの実情を垣間見ることができる。そしてこの「垣間見る」という点こそが、本書の本質となっているところがある。

 本書を読み進めていくとすぐにわかることであるが、ソマリランドを知るうえで、「氏族」という概念を理解することは必要不可欠だ。これはたとえば日本語の「部族」といった言葉のニュアンスとは別のものを指しており、日本で言うところの親族関係に近いものがあるということらしい。「らしい」とわざわざ書いたのは、血のつながりが絶対というわけではなく、むしろ契約によって氏族に連なることができるケースもあるということで、厳密な意味での親族とは異なるのだが、こうした氏族の概念は、ソマリアを外からとらえようとするだけでは見えてこない部分であり、それゆえに私たちは、氏族と部族を混同してしまうし、それによってますます本質から遠ざかってしまう。言ってみれば、ソマリランドを「地上のラピュタ」たらしめているのは、他ならぬ私たち自身――現地の空気を肌で感じたことのない私たちが、勝手に想像をたくましくしているせいでもある。

 もちろん、著者もソマリランドの住人からすれば外国人であり、同じ文化を共有しているわけでもない。だが本書の大きな特色のひとつとして、著者の翻訳能力の高さがある。これは、日本には存在しない概念や考えを、私たちに馴染みのある別の何かに置き換えることで、より理解しやすい形で説明するというものであるが、たとえば遊牧民たるソマリ人の「氏族」は、同じ氏族のなかでもいくつかの分家があり、さらにその分家のなかでもいくつかの分分家に分かれていて……と、際限なく枝分かれしている。ふつうに考えてもひどく複雑でわかりにくいものであるのだが、著者はこの複雑な氏族の概念を、日本の住所の考え方をあてはめることで簡潔に説明することに成功している。ソマリ人にとって相手に氏族を名乗ることは、私たちが相手に自分の住所を教えるのと同じ――それはあるいは乱暴な説明かもしれないが、少なくともソマリアのことをよく知らない私たちにとって、一気にその距離を縮めるだけの効果はある。

 丹念に文献を読み、いろいろな人に話を聞いた結果、私はソマリア内戦とカオスの核にあるのは「源平の戦い」と「源氏内部での覇権争い」ではないかと考えるようになった。要するに氏族の戦いなのだ。

 現地のソマリ人から突っ込んだ話を聞くために、麻薬の一種であるカートにハマって便秘で苦しんだり、海賊稼業で成り立っているプントランドであやうく海賊行為の片棒をかつがされそうになったり、あるいは急な大雨に車ごと流されそうになったり、雇ったソマリ人と金でトラブルになったりと、けっこう大変な目に遭っていながら、それでもさらりとソマリ人のなかに入り込み、なじんでしまうところに著者の凄さがあると思ういっぽうで、他ならぬ著者ならそうであっても不思議ではないというのは、同著者の『ワセダ三畳青春記』を読んでいても強く感じるものだったりする。そして何より、私たちがメディアからの一方的な情報によって、ある国や地域に対してある種の偏見的な視点をもってしまっていることを、本書は何よりも雄弁に物語ってくれる。

 崩壊した国家として国際的に認識されているソマリア――だが国の崩壊が、そのままそこに生きる人たちの不幸とつながるわけではない。国とは何か、人にとっての国家とはどういうものなのかという、私たちにとってはあまりにあたり前すぎて疑問に思うことさえなくなってしまっている命題を、あらためて意識させてくれるという意味で、本書は非常に貴重なものを読者にもたらしてくれるに違いない。(2014.06.23)

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