【岩波書店】
『ソクラテスの弁明/クリトン』

プラトン著/久保勉訳 



 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震――その津波に端を発した福島第一原子力発電所事故は、放射性物質漏れという二次的被害をもたらすことになった。以来、テレビはもちろんネット上においても、その手の話題が今もなお後を絶たない状態にあることを私は知っている。いつ、どこで、どの程度の放射能が漏れていたのか、現状はどんなふうで、今後どうなっていくのか、それは何に、どのくらいの影響を与えるのか、人体に害をおよぼすほどなのか、そうでないのか、そうであるとすれば、どの程度が危険領域なのか――さまざまなメディアがさまざまな情報を取りあげ、その手の専門家が安全だとかそうでないとかいったことを次々と伝えているし、私たちも自身の身近な出来事である以上、なにより正確な情報を欲している。だが、そうした雑多な情報を見ているうちに、けっきょくところ本当は何がどうなっているのか、その正確なところがわかっている人は、じつは誰ひとりいないのではないか、という思いにとらわれる。

 ある事柄について、本当に理解している人、本当のことを知っている人というのは、自分がつかんでいるものがまぎれもない真実であるという、ただそれだけのことが大きな力となることを知っている。人と対話するさいに、まず恫喝や圧力をもってことにあたるのは、そこに真実の力がないからに他ならない。そして今の世のなかにおいて、そうした権威にものを言わせるやり方は――とくに政治的には――充分な効果をもっていたし、今もなおそうなのだろう。そんなふうに考えたとき、本書『ソクラテスの弁明』に示されている、ソクラテスへの不正な死刑宣告から、私たち人類は何ひとつ進歩していないのではないか、と思わずにはいられなくなる。

 とにかく俺の方があの男よりは賢明である。なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。

 本書は紀元前399年、アテナイの各階級を代表する三人の告発者に訴えられたソクラテスが、法廷において行なった弁明を書いたものであるが、著したのは彼の弟子であるプラトンで、ソクラテス自身はいっさいの著作を残さなかったと言われている。そして上述の引用を見るかぎりにおいて、ソクラテスという人物の無遠慮さ――悪く言えば傲慢さの一端が見えてくる。それは同時に、法廷という場において、彼が自身の罪についてまったく認めていなかったことを意味する。

 ではそもそもソクラテスは、どのような罪状で訴えられていたのか。じつは本書のなかに、その具体的な内容は書かれていない。ただ「不正を行い」「悪事を曲げて善事となし、かつ他人にもこれらの事を教授」したとか、あるいは「青年を堕落せしめかつ国家の信じる神々を信ぜずして他の新しき神霊を信ずる」とかあるだけで、はなはだ抽象的なものばかりである。私は紀元前のギリシアの法廷について、その事情をよく知る者ではないが、たとえば誰かを殺害したとか、誰かの物を奪ったとかいった罪状は、どこまでも客観的かつ明確なものであるはずで、そういう意味でソクラテスの訴状が異例のものであることが見えてくる。逆に言えば、それだけの情報がけっして長くはない本書から汲みとれるということであり、その洗練された筆致は間違いなく本書の大きな特長のひとつとなっている。

 その罪状こそあきらかにされていないが、ソクラテスが何をしてきたのかについては、本書のなかに書かれている。彼は、自分より賢明である人物をひたすら捜し求めていたのだ。それも、彼の友人がデルフォイの神託において、「ソクラテスより賢い人間はいない」というお告げを聞いたことを受けて、「そんなことはない。自分より賢い人間はきっとどこかにいるはずだ」と考えたがゆえのことである。以来、ソクラテスは賢人と呼ばれる人を片っぱしから訪れては教えを乞うたものの、よくよく対話を重ねてみると、本当は自分でもよくわかっていないことを、さも知っているかのように話しているにすぎないことを看破してしまう。ソクラテスを相手にした世の賢人たちは、例外なく彼によって自身の無知を思い知らされる結果となるわけで、それがどうにも気に食わない。さらに言うなら、そんなふうに賢人たちを論破してしまうソクラテスは若者たちに人気があり、彼の言動が喜劇となって上演されたり、彼の真似をして大人をやりこめようとする若者が増加するという、一種の社会現象が起こっていたことが、本書から読みとれる。

 ソクラテスは、自分の無知をなんら恥ずかしいことだと思っていなかった。それどころか、彼の思考は常に、自身の無知からはじまるものとなっている。無知の知――「真に賢明なのは独り神のみであり」「人智の価値は僅少もしくは空無である」という思想は、その人生においてしばしば神の声を聞き、自身の行動の指針としていたというソクラテスらしいものであるが、それ以上に重要なのは、けっして尽きることのない追究の姿勢、自身が納得のいくまで思索することをやめないというその姿勢にこそあると言える。知らないことをさも知っているかのように取り繕ったり、詭弁を弄したりするのではなく、本当の意味で知るということを追究しつづけたのが、ソクラテスという人物だということである。そしてその妥協を知らない姿勢を自分だけでなく、他人に向けることも厭わなかったがゆえに死刑を宣告されたのだとすれば、さらにその事実を前にしてもなお、自身の姿勢を崩すことがなかったのだとすれば、その思索の激しさがいかばかりのものだったのか、想像できようものである。

 ソクラテスの考えることに対する姿勢は、今を生きる私たちに何を教えるものなのか。たとえば、福島第一原子力発電所事故における東京電力と管内閣の対応の悪さがあれほどのものでなかったとしたら――すみやかな冷却材投入などで事故が収束していたとしたら、私達は原子力発電所の危険性について、今ほどの危機感をもてていただろうかと考えたとき、その危機感をもつことができたのは、おそらくそのことを思索しつづけ、仮説を提示しつづけた者だけであり、大部分の人たちは、声の大きい、恫喝に近い「安全だ」の声に今もなお惑わされつづけていたのではないか、ということである。自身の意思で考えつづけるというのは、それほどまでに困難なことなのだ。そしてだからこそ、ソクラテスをはじめとする哲学者の存在について、あらためて目を向けるべきだとも言える。私達はもっとよく考え、よくものを見て、何かに耳を傾けるべきなのだ、と。(2011.07.23)

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