【講談社】
『そうだったのか現代思想』
−ニーチェからフーコーまで−

小阪修平著 

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 インターネット上にこの書評サイトを開設してから、私もそれなりにいろいろな本と出会ってきたし、ともあれ自身の信条として、最後まで読むということをつづけてきたわけですが、「リクエスト書評」も含めて、なぜそんな縛りを設けてまで自分は本を読むのかという命題を考えたときに、ひとつ言えることがあるとすれば、それは自分が本のなかに、何か人生の指針となるようなものを探し求めていたのではないか、ということです。

 もちろん、私はそれ以前に物語が好きで、そうした架空の世界を楽しむという目的がまずあるのですが、まがりなりにもサイトに載せる書評というものを書いていると、けっこう哲学的なことを考えずにはいられない場面に遭遇してしまうんです。たとえば「生とは何か」とか、「死とは何か」とか、あるいは人と人との関係とか、自分と他人との差異や、そこから生じる孤独感といった事柄なのですが、なかでももっとも典型的なのは、「まぎれもない自分自身」という表現です。私の書く書評のなかには、じつにしばしばこの表現が出てくるのですが、それは言い換えれば、本の著者が、小説や物語というものの力を借りて、自分自身の存在を思い悩み、なんとかして確固とした自己を再認識したいという欲求を、その本を読む私が感じとっている、ということです。そして、それと同じような思いは、私のなかにもたしかにあります。

 西洋哲学というものに目を向ける必要性を感じた直接的な要因は、以前に読んだ笠井潔のミステリー『バイバイ、エンジェル』に触れたことにあります。ここに登場する矢吹駆という探偵は、フッサールの現象学が唱える「本質直観」による推理を行なうんですが、もし自分にその方面の知識が多少なりともあれば、もっといろんなことがこの作品から見えてきたのではないか、と思ったわけです。ただ、哲学や思想と言っても千差万別で幅が広く、どこから手をつけるべきなのかまったくわからない。本書『そうだったのか現代思想』は、西洋哲学についての入門書みたいなものがないかという過程で見つけた本ですが、ニーチェをさきがけとする現代思想の流れを、近代までの主流だった思想も踏まえたうえで、簡潔な表現で解説してくれています。もちろん、そこに書かれているのはあくまで概要であって、本書だけでニーチェからフーコーまで網羅できるというわけではないのですが、本書がすごいのは、それぞれの哲学者や思想家について、なぜそのような哲学なり思想なりを展開していくことになったのか、という点をきちんと捉えていけるという点です。

 たとえば、クラシック音楽というのがある。私も一時期興味をもったことがあって、とにかくいろいろとCDを聴いてみたことがあったのですが、まあそれなりにホルストの「惑星」やガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」なんかはいいなあ、とは思ったものの、それ以上のところにまで行けなかったことがあります。それはお前の趣味に合わなかったんだ、と言われればそれまでなのですが、もし音楽史というものの知識が少しでもあったとしたら、たとえばバロック派のバッハの曲が意味するものや、その曲が生まれた背景という方向から理解が進んでいったかも、と今になって思ったりします。それは、あるいは知らなくてもいいことかもしれないし、かえって知らないほうが純粋に音楽を楽しめるのかもしれないのですが、知っていることで出てくる親しみというのもあるだろうと思うのです。

 クラシック音楽は芸術ですが、哲学となると感覚でどうこうということではなく、人々の思考の歴史です。そういう意味で、本書は現代思想史としての側面が強いです。そしてその歴史の流れは、私たちの営む日々の生活ともけっして無関係ではない。たとえば、今私は何気なく「私たち」という言葉を使いました。こういう表現も、書評のなかでよく使ったりするのですが、はたしてここにある「私たち」とは、具体的に誰のことを指すのかという問題がそこにはあります。「私たち」のなかには、当然自分自身も入っているわけですが、同時に、自分以外の誰か――より具体的には本の読者――もまた、自分と同じように思っているはずという前提があるのです。世界というものがあって、それを外から眺めるという視点、何かを基準とするものの見方を、知らず知らずのうちに私はもってしまっているのですが、こういうものの考え方を否定するのが現代思想の骨子です。万人に共通のもの、それはけっきょくのところ真理ということになるのですが、そんなものはない、という姿勢は、キリスト教圏においては絶大な影響をおよぼしてきた神の真理の否定へとつながっていく。これって、考えてみるととんでもないことです。ニーチェが発したとされる「神は死んだ」という言葉には、こういう背景があるわけですが、では私たちはその死んだ「神」に代わって何に基準を置いて生きていくべきなのか、という流れから、さまざまな現代思想が生まれていくことになります。

 現代思想の難解さは、近代までは磐石であったはずの絶対的なものが否定されたことと無関係ではない。つまり、現代とは相対主義の時代であると本書は語るわけですが、そこから人間というものに目を向けた結果として、フロイトは無意識を発見し、それがハイデガーの実存主義へとつながり、いっぽう言葉の構造をとらえなおそうとしたソシュールの理論が、後の構造主義や記号論へとつながっていく。私が学生だった頃に読んだ筒井康隆の『文学部唯野教授』のなかにも、構造主義や記号論、さらにはポスト構造主義といった言葉が出てきましたが、その背景にはそうした現代思想の流れがあったんだなあ、とあらためて思ったわけです。そういう意味で、本書のタイトルにある「そうだったのか」という表現は言いえて妙です。

 本書の特徴のひとつとして、相対主義を主体として現代思想を語るという視点があります。いわば絶対主義の対極としての相対主義について、かつて志村けんが「8時だョ!全員集合」のなかで歌っていた替え歌「カラスの勝手でしょ」を例として挙げるセンス、その絶妙さが著者の芸なんですが、デカルトの「我思うゆえに我あり」という絶対的権威を否定し、それぞれがそれぞれにものの基準を求めていくということで、ある種の自由を獲得したように思えるし、だからこそさまざまな現代思想が花開いていったとも言えるのですが、同時に、私たちはけっこういろいろなものに縛られているという意識が生まれてきます。たとえば言葉の問題、私などは日本語という言語でものを考えているわけですが、これはもうすでに日本語という体系にとらわれている、そこから自由ではない、ということが言えたりします。

 そんなふうに考えると、たとえば多和田葉子という作家の書く作品が、日本語というひとつの構造から抜け出して自由になろうという試みとして見えてくる。それは、デリダが唱えた脱構造、言葉の限界を知ったうえで、それをずらしていくことにつながっていくのではないか、という新しい発見になるわけです。そして私が思ったのは、現代というのはいろんな意味で何かを暗中模索する人々で満ちているんだなあ、ということです。絶対的なものはない。それはいっぽうで人々を自由にしたはずなのに、どこかで不自由さを感じ、またどこにもつながっていかないという孤独や不安をいっぽうでかかえることになっている。そうした意識について、ある程度自覚するという意味でも、本書の意義は大きいと私は思うわけです。

 相対主義の時代になって、私も含めた人々が個々に切り離されたようになってしまった、と著者は語ります。ですが、人はけっしてひとりでは生きられない。世界のなかで生きていくためには、人と人との関係はけっしてはずせません。そうした自身の世界とのかかわりかた、その立ち位置を自覚したうえで、あらためて小説というものと対峙することで、私もこれまでの書評を超えていけるのではないか、というかすかな期待を本書から得られたような気がします。(2008.04.23)

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