【角川書店】
『サウスバウンド』

奥田英朗著 



 あきらかに間違っているとわかっていることに対して、異議を唱えること――それは誰もが建前としては賛同する立派な志であることは間違いないが、現実問題として、その立派な志を貫くことができる人は、じつは驚くほど数が少ない。もちろん、基本的に臆病で、自身の人生になるべく波風を立てたくないと考えている日和見主義の私には、とうていできそうもないことである。

 たとえば、ごく身近なわかりやすい例として、「ワリカン」というものを挙げてみる。これは、大勢でどこかに飲みに行ったりしたときに発生する飲食代の支払方法のひとつで、飲食代にかかった総額を参加人数で割った数字を個々の代金として徴収するという、きわめて平等な方法であるが、この「ワリカン」において、ひとりひとりが支払う金額がどのような計算によって導き出されたものであるのかを、本当は明確にしておく必要がある。なぜなら、最終的にお金を集めて支払いを済ます人が、自身の利益のために故意に高い金額を徴収している可能性も、まったくないとは言い切れないからである。

 だが、参加者はたいてい飲食代の費用など気にもとめていないし、仮にそうした不正がわかったとしても、あえて騒ぎ立てたりしないこともしばしばある。少しばかり気に入らないと思っても、そのことで場の雰囲気が悪くなったり、せっかくの人間関係がこじれたりといったデメリットを考えたとき、多少の不正には目をつぶってしまったほうがいい、というきわめて個人的な心理が生じることがあるからだ。ここで、ワリカンの内訳の明示を求めることは、けっして間違ったことではない。むしろ正しいことである。だが、ときにこうした正論が、参加者の何人かにとっては余計なこと、慣習を乱す気に入らない行為として受け止められてしまうことがあるのもたしかなことなのだ。

 同じひとりの人間であるにもかかわらず、ある社会においては、まるで極悪人であるかのように人々に忌み嫌われており、別の社会ではまるで救世主や英雄であるかのようにその存在や功績を称えられている、という極端な格差が生じることがあることを、私たちはよく知っている。そのさいに、はたしてどちらがより真実に近いものがあるのか、一概に判断するのは難しい部分があるのだが、こうした現象が起こってしまう背景には、けっきょくは上述のような事情がからんでいるのではないか、と思うことがある。この場合、異議を唱える相手が巨大な組織や国家といった、とほうもなく強大なものである、という意味で「ワリカン」の例とはわけがちがうのだが、ひとつだけたしかに言えることがあるとすれば、彼らは相手が誰であれ、自分が正しいと思ったことを、自らの行動でもって指し示すだけの勇気をたしかにもっていた、ということである。

 本書『サウスバウンド』という作品は、突きつめてとらえるならばそうした勇気を奮うことができるある男の家族の顛末を描いたものだと言うことができる。ただし、小学六年生の上原二郎の視点が中心になって展開していく本書において、その男――父親である上原一郎はたとえば、高橋克彦の『火怨』に登場する阿弓流為(アテルイ)のようなかっこよさは、一見するともっていない。二郎の目に映る父親は、彼が知っているクラスメイトの父親とは違い、いつも家でゴロゴロしていて、働いているような気配がない。一応フリーライターということになっていて、ときに文章を書いていたりすることはあるが、その原稿が活字となって出版されたのを見たことがない。そのくせ、国民年金はぜったいに払わないし、子どもたちには「学校なんか行くな」と言う、二郎の通う学校に乗り込んで騒ぎを起こす、警察を毛嫌いしていて何度も衝突をくりかえすという、父親でありながら子ども以上の問題児であり、むしろ二郎が父親の言動に苦労させられることが多かったりするのだ。

 物語は大きく二部構成となっていて、第一部では東京中野を舞台にした二郎のちょっとした戦いの顛末を、第二部では沖縄の西表島を舞台にした父親の、土建屋や不動産屋を相手にした戦いの顛末を中心に物語が進んでいくことになる。こんなふうに書いていくと、第一部と第二部の対比がはっきりとしているように思えるが、どちらの部においても共通して言えるのは、ただでさえあまり状況がよくないところに、父親の破天荒で怖いもの知らずの言動がますます家族を窮地に追い込んでしまう、という物語の展開であり、むしろそちらのインパクトのほうが強烈である。だいいち、第一部から第二部への移行の背後には、最終的に今まで住んでいた土地にいられなくなり、夜逃げ同然に東京から離れなくてはならなくなった状況がからんでいて、それはすべて父親の言動が原因となっているのだ。

 二郎や妹の桃子にしてみれば、いつも誰かと衝突せずにはいられない父親の存在は迷惑千万なものであり、それはたとえば、かつて父親が学園闘争の過激派活動家であり、沖縄の米軍基地でファントムを炎上させたとか、キューバのカストロと旧知の仲であるとかいった武勇伝、一部の人たちには尊敬される伝説の闘士であり、また公安からは今もなお怖れられている要注意人物であることをおぼろげながら知るようになっても、たいして評価は変わらない。子どもたちにとって一郎は父親として期待されてはいても、国を相手に体を張って戦うようなことを期待されていないのだから、彼らの反応はごく当然のものである。二郎にしてみれば、学校の友だちと遊んだり、こっそり女湯を覗きにいったり、夢精を体験してしまったりといろいろ忙しく、そうした事柄のほうがむしろ重要であって、国の搾取がどうの、労働階級がどうのという話は、彼の今見えている世界のなかではあまりにも現実離れしたものでしかないのだ。

 奥田英朗の作品は、以前に読んだ『最悪』のときもそうだったが、ごく普通に暮らしている人たちをとことんまで追いつめていく過程を描くのが秀逸な作家であり、本書でも第一部において、二郎はカツと呼ばれる不良中学生に目をつけられ、何度も「急所がひょいと持ち上がる」ような目に遭うが、最後には友達と協力してカツと戦って打ち負かしてしまう。理不尽なこと、あきらかに間違っていることに対して迎合してしまうのではなく、自分なりに善後策を考え、けっして屈しないという態度を示した、という意味では、二郎はやはり父親の子どもであり、父親と似たような思考をたどっていると言える。つまりは似たもの同志なのだ。そして、第一部のそうした要素を受けて、第二部での父親の活動をとらえたとき、はじめて本書の第一部と第二部が、二郎と一郎という対比によって成り立っている物語であることが見えてくる。

「二郎、世の中にはな、最後まで抵抗することで徐々に変わっていくことがあるんだ。奴隷制度や公民権運動がそうだ。平等は心やさしい権力者が与えたものではない。人民が戦って勝ち得たものだ。誰かが戦わない限り、社会は変わらない。おとうさんはその一人だ。わかるな」

 本書を読み終えた読者は、それまでただはた迷惑で時代錯誤な存在でしかなかった上原一郎という個人に対して、それまでとは違った感情を抱いていることに気がつくことになる。方法や思考はけっしてスマートでもかっこよくもないが、あくまで個人の立場でものを考え、正しいと思うことをストレートに実行することができる勇気――たとえ、世の中すべてを敵に回すことになったとしても、なお迎合しないという態度が、このうえなくかっこいいものとして見えてくる。そういう意味で、本書はたしかに大きな力をもった物語である。(2006.03.03)

ホームへ