【新潮社】
『さよなら、スナフキン』

山崎マキコ著 



 ギブアンドテイク、などというと、なんだかあくまでビジネスライクな、個々の感情の入り込む余地のないどこか冷たい印象を受けてしまうものであるし、もとより人は友情とか信頼といった精神的なつながりを大切にし、そのために行動したいという思いが強いものでもあるのだが、何かを手に入れるために、まず自分がその何かを与える立場になる、という考え方は、いっけん逆説的ではありながら、じつは物事の真実の一端を指し示すものでもある。

 たとえば、私はこの本紹介サイトの運営をそれなりに長いあいだ続けている身であるが、ネット上の立場としては、さまざまな本の情報を発信する側にいると言うことができる。だが本を読み、その書評を書いてネット上にアップするという行為が、私と同じく本を読むことの好きな人たちを呼び、彼らとの交流のなかで私も知らなかったさまざまな本の情報が自然と集まってくるようになった、という経験がある。そのときの私は、けっして情報がほしいという意図はなかったのだが、結果として情報が集まるようになったのは、他ならぬ私自身が情報の発信源であるからだと思っている。そしてそんな私にしても、面白そうな本を探すためにネット上の個人サイトを覗いてみたりするわけだから、もとより私も誰かの発信した情報の恩恵を受ける身でもあるのだ。

 人はけっして自分ひとりで生きているわけではない。たとえどれだけ多くの才能にめぐまれ、どんなことも自分の力で成し遂げていると思っていても、同時に私たちは目に見えないところで、かならず自分以外の誰かの助けを受けているものである。それは、ギブアンドテイクという表現とはちょっと違う、人間がほかならぬ人間であるために必要なつながり、自然発生する相互扶助的なものだ。そして、だからこそというべきなのだろうか、私たちの目は日々の生活に追われるあまり、しばしばそうした事実が見えなくなり、目先にある自分のことばかりにとらわれてしまったりする。

 わたしはたぶん、この世のどこかでスナフキンに出会いたいのだ。わたしは友達感覚でお互いに「どうしよう」と言いあうのではなく、私よりずっと広い世界を知っている誰かに心配されてみたかった。――(中略)――きみは心配されるに値する、かけがえのない人間だよと告げてほしいのだ。

 本書『さよなら、スナフキン』に登場する大瀬崎亜紀のことを、ひと言で説明するのは難しい。純情でひたむき、と言えば聞こえはいいが、そのひたむきさを向ける対象が、どこか世間からズレてしまっているのだ。それゆえに自分と他者、自分と社会との距離をうまくたもつことができず、ときにトンチンカンな言動を引き起こしたり、それだけならまだしも、不用意に人の心のふところに踏み込んだり、あるいは急に突き放したりして一気に関係を悪化させることもしばしばなのだが、当の本人にはまったく悪意がないだけにタチが悪いとも言える。人とうまくつきあえない、容姿もけっして良いというわけでもない、大学も一度やめて、別の大学に入りなおすのに三浪してしまうという不器用な自分を、誰よりも嫌いでたまらないネガティブ志向の女性――そういう意味で、大瀬崎亜紀はこのうえなくイタイ人物という位置づけにある。

 誰かに自分を必要としてもらいたい、誰かに価値のある人間だと認めてもらいたい、という願望に突き動かされるようにしてアルバイト募集の面接に向かった、とある編集プロダクションでも彼女はいろいろとポカをやらかしてしまうのだが、なぜかそこの社長である日比野に見込まれて採用されることに。「君には才能がある」という言葉に励まされて本の原稿を書くことになるのだが……。

 履歴書に証明写真を貼るのを忘れて、四枚つづりの写真をそのまま面接官に渡してしまったり、目的地までの地図を書けと言われて、ごく普通の一軒家の表札に書かれた名前をひたすら書き込んでいったり、ワープロソフトの日本語変換機能が最初に変換してくれる漢字が正しいと信じこんでとんでもない日本語の文章を書いてしまったり、といった大瀬崎亜紀の天然ボケっぷりが笑いを誘う本書であり、それがこの物語のひとつの特長であることは間違いないが、それ以上に重要なのは、そもそも世間の認識からズレた思考の持ち主である彼女が、日比野という名の「スナフキン」との出会いによって、アルバイトをはじめるそもそもの目的だったはずの「価値のある人間になりたい」という漠然とした思いのうえに、「シャチョーにとって」という具体的な対象がくっついてしまったところにこそある。

 念のために説明しておくと、スナフキンというのはトーベ・ヤンソンの書く小説に登場する旅人のことで、ムーミン一家の友人でもあるのだが、こと大瀬崎にとっての「スナフキン」とは、理知的で広い世界を知っている大人の象徴として機能している。孤独を好み、相手を冷たく突き放す態度をとりながらも、心のなかでは相手のことを考え、心配してくれている「スナフキン」――いつしか大瀬崎は、日比野の経営する編集プロダクションのなかに自分の唯一の居場所を見出し、彼にとって役に立つ人間になりたいという強い想いにとらわれてしまうことになるのだが、そもそも本書の特質が彼女の思考と世間とのズレにある以上、日比野=「スナフキン」という等号もまた彼女独自のズレの産物であり、いつかはそのズレを正さなくてはならないときがやってくることになるし、そうでなければ物語は停滞してしまうことになる。

 自分以外の誰かの役に立ちたい、という思いは尊いものであるし、それは人間だからこそ与えられたものの考えなのかもしれない。だが、その思いは意識上にのぼってしまったとたん、そのベクトルが相手から自分自身へと逆転してしまう性質をもったものでもある。大瀬崎の日比野に対する想いは、そういう意味では愛と呼べるものではない。それはむしろ、歪んだ自己愛に近いものがあると言える。自分を嫌い、自分の価値を自分以外の誰かに求め、それゆえに相手の望む自分を演じていこうと奮闘する大瀬崎亜紀――その姿は、彼女だからこそ滑稽で笑いを誘うものであるのだが、彼女の奮闘は常に相手に向かうのではなく、自分自身へとズレていってしまうのだ。

 本書は一種の青春小説であり、主人公が苦難を乗り越えて成長していく物語でもある。もっとも、苦難とはいうものの、大瀬崎は基本的にいろいろと悩んだり嘆いたりはするものの、目の前にある問題をどうにかしようと立ち向かう、ということをなかなかしようとしない。自分の思い込みが間違っていることに薄々気づきつつあるにもかかわらず、その事実をなかなか認めようとしない、優柔不断で気弱な女――彼女にとっての成長とは、ほかならぬ等身大の自分自身に目を向けるということである。そしてそれは、誰かに自分の価値を見出してもらうのではなく、価値のある自分に向かって自分を磨いていくことへとつながっていく。

 だれかにただ無条件に守られ、愛されなくても大丈夫なはずだ。わたしは子どもではないのだから、愛がなくても生きていける。
 そしてたぶん、だれかを愛する力だって持ち合わせているのだ。

 大瀬崎にとって無条件に自分を愛してくれるはずの「スナフキン」――その言葉のもつ意味に気がついたとき、同時に『さよなら、スナフキン』という本書のタイトルが大きな重みをともなってくることになる。誰かに愛される自分を目指すために、まず自分を愛し、自分から誰かを愛することの第一歩を踏み出した彼女の、ほんとちょっとした成長をぜひ見守ってほしい。(2007.05.12)

ホームへ