【講談社】
『蛇・愛の陰画』

倉橋由美子著 



「人はひとりでは生きていけない」とは、私が書評のなかでよくもちいるフレーズのひとつであり、ということは、小説のテーマとしてよく見受けられるものでもあると言えるのだが、こうしたテーマは物語のなかに含まれているからこそ人々の心にしみこんでくるものであって、声高に主張してしまうと、その裏に隠されている「だからお互いに助け合って生きていきましょう」という思いが、「助け合わなければならない」という強制としての要素へと変化し、かえって押しつけがましさばかりが目立ってしまうことになりかねない。

 私たちがふだん抱いている正義や正しさといった概念は、ともすると「こうでなければならない」という偏見を増長しかねないものでもある。それでなくとも、私たちは生まれ落ちた場所や時代によって「こうあるべき」という偏った常識を、さも天地開闢の時から続いてきた絶対の真理であるがごとく捉えてしまいがちな生き物でもある。倉橋由美子の初期短編七作を収めた本書『蛇・愛の陰画』について、何かを語ることはなかなかに大きな困難をともなうものがあるのだが、これらの短編集を読み進めていったときに見えてくるのは、不完全で偏見に満ちた人間というものの、その完全な形とはどのようなものなのか、という、まるで哲学者のごとき思索の痕跡である。

 《貝》のなかでは彼女たちは二枚の皮膚を一枚に貼りあわせて共有の膜をつくり、これをへだててどろどろした《存在》をたぎらせている。わたしはむしろ彼女たちがたがいに距離をとり、自分の皮膚を他人のそれからひきはがして、自分だけの孤独をつつみ、こじんまりとした球形の存在なるべきだとおもう。

(『貝のなか』より)

 歯科大生の「わたし」が新参者として、三人の寮生とともに狭い寮の部屋で暮らすことを余儀なくされる『貝のなか』において、語り手がとらえる世界はすべてが極端にデフォルメされたものとして描かれている。とくに同室の女性にかんしては、《P・イクラ》や《V・スジコ》といった名前はもちろん、とくにその女性としての特徴である部分については「余計な肉」という表現を使い、まるで寮生たちがぶよぶよの肉の塊であるかのような捉え方がされている。おそらく、彼女たちはある種の典型的な女子大生――たいして頭はよくないかもしれないが、健康で女としての自身を充分自覚している女の子なのだろう。だが、語り手にとっての彼女たちは、狭い部屋のなかで、そこだけで通用するルールに馴れ合って生きている存在として映っており、その馴れ馴れしさ――自他の境界をあっけなく侵食してこようとする仲間意識に憎悪すら覚えている。

 こうした登場人物たちの抽象化、とくに男女の性にかんする抽象化というのは、本書の大きな特長のひとつであり、たとえば寝ているうちに蛇を飲み込んでしまったKという人物が出てくる『蛇』のなかで、Kは役割的には男のように思えるのだが、しきりに自分が「妊娠」することを気にしているところなど、まるで女性であるかのような振る舞いを見せており、その性別がはっきりしていない。そして、蛇を飲み込んだという確固とした事実については、自分の周囲にいる者たちがそれぞれ勝手気ままに解釈し、あるいはKを蛇に飲み込まれた犠牲者に仕立てあげようとし、あるいは蛇と同化しているという判断をくだしたりし、それが事実以上の影響力をおよぼしたりする。

 まぎれもない自分というものを考えるさいに、そのアプローチにはいくつかの方法があるが、本書を読み進めていくと、自身の存在をその肉体や性という物質的な存在によって規定しようとする流れと、何らかの組織に所属し、その帰属意識のなかに自分の価値観を見出そうとする流れがあることに気づく。登場人物として学生運動に参加している者たちがよく登場するが、それは本書の書かれた時代的要因もさることながら、自分を規定する方法のひとつとして捉えられていたふしがある。そしてそのいずれのアプローチについても、語り手の視点はあくまで突き放した視点によってデフォルメされ、滑稽ささえうかがえるような書きかたをされている。そしてその傾向は、まぎれもない自分を決定づける何か完璧なものがどこかにあるはずだ、という著者の一貫したテーマにもつながっていくことになる。

 自分は蛇を飲みこんだだけだと主張する『蛇』のKが、自身の排泄物として生み出した黒い球形の糞という形をとったその「何か完璧なもの」は、『巨刹』においていったんは男女の純愛めいた部分にそれを見出そうとしているものの、つづく『輪廻』では、人間の体を分解して余計なものをそぎ落とし、頭だけの存在、あるいは脳だけの存在として存続させるというアプローチを試みている。そして『蠍たち』『愛の陰画』においては、二卵性双生児である男女という形をもってひとつの世界をつくりあげている。双生児であり、かつ男と女という性を分かち合うふたりは、言うなればふたりではじめてひとつの完璧な存在となるべきものであり、それらの短編においてはそれ以外のあらゆる価値観――社会が押しつけてくる女性としての価値観や男性としての価値観をこのうえなくデフォルメし、双生児の下位のものとして排除していくという流れをとることになる。

 そして、この双生児の男女をひとつの存在として結実させたものが『宇宙人』という短編に出てくる、卵から誕生した両性具有の宇宙人である。女の股から生まれるのではなく、まったくの無のなかから誕生し、両方の性をもつがゆえに単体で完結している宇宙人――しかし、その完璧な存在は意識と呼べるようなものをもっておらず、ただ姉弟の言うがままにされているだけで、はたして著者の求める「何か完璧なもの」と言うべきものなのかという疑問は残る。だが、少なくとも著者がどのような対象を「何か完璧なもの」として選んでいったのか、という方向性をとらえることができ、そういう意味でもこの短編集の掲載順番を決定した方のセンスの良さを感じずにはいられない。

 ぼくとLは二つのベッドをくっつけ、宇宙人を両側からだいて眠るようになった。――(中略)――ぼくは宇宙人の女性の部分で、Lは男性の部分で、宇宙人を共有するのだった。ぼくとLのあいだにはにせの肉で包まれた虚無が横たわっていた。いわばこれがぼくたちの宇宙だった。

(『宇宙人』より)

 どこかリアルとは程遠い世界のなかで、誰かの領域を侵すようなことなく、ただそれだけで完結する世界を求める登場人物たち――そのこのうえなく孤高で美しく、そしてそれゆえにグロテスクでさえある独自の世界に、はたしてあなたはどのような感想をもつことになるのだろうか。(2012.11.20)


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