【講談社】
『煙か土か食い物』

舞城王太郎著 
第19回メフィスト賞受賞作 

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 私の二歳年上の兄は、今でこそ結婚して落ちついた家庭の父親におさまってはいるものの、中学や高校の頃はかなりの問題児だったことをよく覚えている。家の中のものを手当たり次第にぶち壊す、といったオーバーな荒れ方こそしなかったものの、何か気に入らないことがあるとピリピリとした雰囲気が家じゅうを満たし、それがときに爆発し、父や母と怒鳴りあったり、家を飛び出していったりするような事態が何度も起こった。その頃の私にとって兄は暴君であり、恐怖の対象でもあった。今でさえ兄に逆らうのは相当の勇気が必要である。まして、まだ小さかった私は、兄が荒れて家の中が険悪になるたびに、自分の部屋に閉じこもり、いつかこの家を離れてひとりで暮らすことを夢みるようになっていた。今にして思えば、私が東京の大学を受験する気になったのは、そうした理由が大きかったのかもしれない、とさえ思う。

 だが、では兄が嫌いなのかと訊かれると、必ずしもそう言い切ることのできない自分がいる。なんといっても同じ屋根の下で何年もいっしょに育ってきた兄弟なのだ。私はいつも兄の後を追いかけていたし、兄のやることに影響されたり反発したりして生きてきた。けっきょくのところ、私と兄が兄弟であり、同じ家の一員であるという事実は生涯ついてまわることであり、またそうである以上、どんな形であれその事実を受け入れるほかにない。そして、今となってはほとんど意味のないことでありながら、こんなことを思ったりもするのだ。もしあの頃、兄がやたらと荒れていたときに、私が部屋に閉じこもるという消極的行動以外の選択肢をとっていたら、私や兄の未来はどんなふうに変わっていったのだろうか、と。

 本書『煙か土か食い物』に登場する奈津川四郎は、サンディエゴのホッジ総合病院に勤める医師であるが、ある日、母親の奈津川陽子が何者かに後頭部を強打されて意識不明の重体だという知らせを受け、二年ぶりに故郷の福井県西暁町に戻ってくることになった。町では今「連続主婦殴打事件」と言われる奇怪な事件が発生しており、陽子はその五人目の被害者だった。四郎は一連の事件の犯人を追うべく独自に調査を開始するが……。

 物語の語り手でもある奈津川四郎の、冒頭からハイにとばしていく文章――まるで脳内で思ったり考えたりしている言葉を、そのまま原稿用紙にぶちまけたかのようなクセのある文章に、まずは圧倒される。そして、こうして物語の概要だけを書き出していくと、いかにもよくありがちなミステリーのように見えてしまうのだが、そのじつ本書のなかでおこる事件は、昏睡状態になった被害者を生き埋めにするという異常性だけでなく、さまざまな見立てや法則性を内包した、どこか偏執狂的な側面をもっていることが、四郎の直感的推理力によってあきらかにされていく。

 何らかの事件が起こり、探偵役の登場人物が事件解決のために犯人を追う、という物語形式は、ミステリーにおいてはけっして外すことのできないひとつのパターンであるが、本書の場合、そうしたミステリーのパターンをある意味忠実にたどりながら、さまざまな側面でその既存のパターンを逸脱しようと試みている点がある。それは、たとえば本書の語り手である奈津川四郎のほかに、『世界は密室でできている。』にも出てくる「名探偵」番場潤二郎を登場させることで、語り手自身が「探偵」という役割から逸脱し、それゆえに本書のなかで、四郎は「直感」などというおよそ探偵らしからぬやり方で次々と謎を解き明かしていくことになるし、また解かれる謎にしても、たとえばそれが犯人に迫る重要なヒントになる、といったようなものではなく、むしろ読み手をさらに困惑させるような、どこかお遊び的な要素が強いものだったりする。

 そして、本書のミステリーからの逸脱は、「はたして犯人は誰で、そして何の目的があって事件を引き起こしたのか」というミステリーの核心部分にまでおよんでいく。なぜなら、本書のなかで圧倒的な存在感を放っているのは、事件そのものでも、ましてやその事件の実行犯でさえもなく、17歳のときに密室であるはずの「三角蔵」から姿を消した奈津川二郎であり、さらには奈津川家という一族が背負った、どうしようもなく血なまぐさい、暴力的なつながりであるからだ。

 俺は自分が暴力的になることが恐い。俺は取り返しのつかないくらいをとっくのとうに過ぎたくらいに何かを完璧にブチ壊してしまうことを恐れている。俺は多分内なる恐怖をたくさん抱え込みすぎているのだろうと思う。

 自身のつらなる血脈がどういった運命をかかえているのかは、その人にとっては大きな問題であり、またそれは多分に文学的なテーマでもある。たとえば、自分の父親が気が狂ったあげく自殺していたとしたら、それはたんに父親という他人の問題ではなく自身の問題でもあるのだ。それが血のつながりがある、ということであり、それゆえに時に血脈は大いなる呪いとなって人々を翻弄する。首を吊って自殺したとされる祖父、言うことを聞かない息子たちに容赦なく暴力をふるう父、その暴力に徹底して逆らいつづけた二郎――代々政治家を輩出し、経済的には非常に恵まれた家庭でありながら、どこかがどうしようもなく壊れていた奈津川家のひとりである四郎が、他ならぬ医者という「治す」職業を選んだというのは象徴的だ。ときに自分でも抑えきれない、自身のうちにある暴力への衝動によって、人を傷つけたり、あるいは人から傷つけられたりしながら今回の事件の真相へと迫っていく四郎の姿は、たしかに探偵というよりも、これまで逃げてばかりいた自身の家族――奈津川家というつながりに対して、壊すこと以外の形で決着をつけようとするひとりの男である。

 奈津川家の果てしない確執にしろ、今回の殴打事件の内容にしろ、客観的に見ればいかにも馬鹿げた出来事である。探偵役の登場人物だってけっして完全ではない。だが、世の中とはそもそも、そんな馬鹿げた理不尽さが大手を振って歩いているようなところではなかったか。そして今という時間をたしかに生きている私たちは、どれだけどん底になろうと、どれだけ世の中が理不尽なものであっても、そしてどれだけ自身が欠陥だらけであったとしても、やはり生きていくしかないのだ。本書を占める圧倒的な馬鹿馬鹿しさ、嘘臭さのなかで、唯一その一点のみが圧倒的なリアルであり、だからこそそのリアルさは読み手の心を惹きつける。

 おそらく、本書はミステリーの要素がなかったとしても、きちんと成立する物語である。ただ、もし本書にそれがなかったとしたら、登場人物たちが生きる世界の圧倒的な理不尽さ、というリアルは、おそらくここまで高いレベルにはならなかっただろう。そういう意味で、本書はたしかにまったく新しい形のミステリーである。(2005.03.09)

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