【講談社】
『歩く』

ルイス・サッカー著/金原瑞人・西田登訳 



 ある人は言う。お金はあればあるだけいい、と。なるほど道理だ。この世はお金が回っていくことによって成り立っているところが少なからずある。ほしいものや、やりたいこと、叶えたい願いといった人間の尽きない欲望や願望は、お金さえあれば手に入れることができる。たとえそうでないような望みであっても、お金がその後押しとなり、またその望みを叶えるための土台となってくれることがある。

 私たちの生きるこの世界は、なにはともあれお金がなければはじまらない、というところがある。お金があれば大抵のことには手が届く。だからお金がほしいと思う。だが、残念なことにお金というものは、けっして一攫千金のような感じで都合よく手に入るわけではない。真面目に働いてなけなしの給料から毎月少しずつ貯金していく。それでも少しずつではあるが確実にお金は貯まっていくはずである。だが、そんなふうにして何年もかけて貯めてきた何倍ものお金を、ものの数時間で稼ぐような人たちの話を聞いたりすると、自分のしてきた事柄すべてが虚しくなってくることがあるのも事実だ。

 自分の人生は自分だけのものであって、他の誰にも肩代わりさせることも、誰かの人生を自分のものと入れ替えることもできない。そういう意味で、自身の人生、自身の境遇を他の誰かのものと比べるというのは無意味なことでもある。だが、それでもそうしないではいられないようなときがある。とくに、自身の境遇に不満があるようなとき、そうした比較はことのほか、自分が他の誰かより損をしている、という不平等感をあおるようなことになる。そしてそうした思考は、その不平等を一気に解消するような方法がないか、という短慮さへとつながりかねないものでもある。

 カウンセラーはいった。あなたの人生は、いわば激流のなかを上流に向かって歩いていくようなもの。それを乗り切るコツは、小さな一歩を根気強く積み重ねて、ひたすら前に進むこと。もし大股で一気に進もうとしたら、流れに足元をすくわれて下流に押しもどされるわよ。

 本書『歩く』に登場するセオドア・ジョンスンは、十四歳のときに喧嘩で相手をこっぴどくやっつけすぎて、グリーン・レイク・キャンプという少年矯正所で一年近くも穴掘りをさせられたという経歴をもつ少年だが、今ではテキサス州のオースティン市で造園会社に雇われながら、高校の授業の遅れを取り戻そうと地道に頑張っている。もともと真面目なところのあった彼は、今の仕事が気に入っていたし、雇い主や顧客からの評判も上々だった。何より、ここにはあの不本意なあだ名「アームピット(脇の下)」で自分を呼ぶ人もいない。だが、そんな彼のところに同じグリーン・レイク・キャンプで知り合ったX・レイが、ちょっとした金儲けのネタをもってくる。今度このオースティンにやってくる歌手カイラ・デレオンのコンサートチケットをふたりで買えるだけ買って、それを別ルートで高く売りつけようというもので、言ってみればダフ屋まがいのことをやろうというものだった。アームピットのもとには、働いて貯めたお金がいくらかある。X・レイが言うには、二週間もあれば今の金額を倍にしてみせる、というのだが……。

 同著者の『穴』で脇役だったアームピットの、その後を描いた本書のなかで、彼は地道な更正の道を歩んでいる。それこそ、カウンセラーが言うような小さな一歩だ。本書の原題にある「SMALL STEPS」はそんなアームピットの今のあり方を象徴するものでもあるのだが、友人X・レイが持ち込んできた儲け話にまんまと乗せられてしまったことをきっかけに、その歩みは大きくつまずきそうになる。調子のいいことを言っていたわりに、何日経ってもチケットは捌けない。そのうえ、広告料だ手数料だと追加の出費がかさんでいく。はたして、アームピットのお金はほんとうに倍になって戻ってくるのか。

 こんなふうに本書の内容を書いていくと、まるでX・レイがとんでもない詐欺師のように見えてくるのだが、彼は金儲けに心血を注いでいるところはあるものの、友人を裏切ったり騙したりするようなことはしない。じじつ、彼はその後しっかりチケットを売りさばき、儲けもアームピットと山分けにしているのだ。もっとも、金に目がくらみすぎて偽造チケットに手を出し、それをアームピットに渡したりしたせいで、ふたりはますます面倒なことに巻き込まれてしまうことになるのだが、ここで重要なのは、彼らのちょっとした悪事が些細なものであるかのような、大きな悪事の存在をほのめかせるという本書の構造である。

 この書評の冒頭で、私はお金の話を枕として語っているが、それは『穴』における、そもそもグリーン・レイク・キャンプで穴を掘らされることになった理由というところにもつながっている。それは、ずる賢くてお金に目のない大人たちによっていいように利用され、搾取されている子どもたちというひとつの構図である。そしてこの構図は、本書のおいても成り立つものだ。その焦点となるのが、カイラ・デレオンという少女の存在である。今やアメリカの売れっ子歌手として全国をコンサート・ツアー中の彼女は、マネージャー兼義父のジェローム・ペイズリーをはじめとする大人たちにかこまれて、息の詰まるような思いでいる。歌を唄うことが好きな彼女にとって、この仕事は天職のようなものでもあったが、まわりの大人たちは自分の歌で金儲けをすることばかり考えていて、いつもひとりぼっち、同世代の友達もできず、プライバシーもないような生活をつづけているのだ。

 いっぽうのアームピットには、悪友ともいうべきX・レイのほかに、ジニーという女友達がいる。彼女は先天性の脳性麻痺をかかえた子どもであるが、アームピットとは妙にウマがあい、対等な親友として接している。それぞれにさまざまな問題をかかえ、これからどうなっていくのかも見えてこないなかで、それでもちょっとした目標を立て、それを目指して一歩一歩進んでいこうとする子どもたち――少年少女たちの友情や恋愛、心の成長といった要素は、いかにもありがちなテーマでもあるが、アームピットたちをはじめとする子どもたちの巻き起こす騒動のなかに、けっして大袈裟ではない形でそうした要素が見えてくるという点で本書は魅力的であるし、とくにカイラのコンサートのシーンのノリは必見だ。

 ちょっと無茶をしたり、ちょっと道を踏み外したりもするが、子どもであるからこそのパワーを物語のなかに取り込みつつも、ギリギリのところで自分にできること、守りたいものを守り、やりたいことをなしとげようと悩み、奮闘する少年少女たちの心の動きを描いていく。そのいっぽうで、そんな子どもたちを見守っていこうとする良き大人たちが多い、というのも本書の大きな特長と言える。『穴』のような一発逆転や、しかるべき伏線がしかるべき収束をしていくというダイナミズムはないものの、子どもたちの子どもたちらしさに溢れる本書は、読んでいると思わず微笑が浮かんでくるような、そんな魅力的なシーンがたくさん詰まっている。(2009.01.17)

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