【講談社】
『しずかな日々』

椰月美智子著 



 人生におけるターニングポイントというものは、まさに通過したその瞬間に把握されるのではなく、その地点を過ぎ去って長い時間を経たのちに「あの時がそうだった」と把握されるものと相場は決まっているが、それは言い換えれば、人生のターニングポイントが人の一生のどこかの時点にあらかじめ設定されているわけではなく、その人が過去を振り返るような機会を与えられたときに、はじめて過去のある地点が「ターニングポイント」として色づけされるものであることを意味する。そしてそれゆえに、ターニングポイントは過去にしか存在しない。過去のある地点と現在を比較し、そのあいだに生じた自身の変化というものを見据えることができるのは、過去を振り返る地点に到達した人だけだからであるが、ここで重要なのは、時間の経過というよりも、むしろ「振り返る」という行為のほうである。たとえ老齢に達した人であっても、自身の過去を振り返ることなく、がむしゃらに先をとらえて生きているような人にとって、ターニングポイントと呼ばれるものは存在しないし、そもそも意味を持つものでもない。

 過去を振り返るという行為は、人生のある時期にふと訪れる空白の時間のなかで想起されるものであったりする。毎日の日常は平凡でありながら、それでいてどこか慌ただしいものであるが、そうした慌ただしさの合間に訪れる、静かな時間――本書『しずかな日々』という作品がもたらすどこか懐かしく、あたたかい感じは、大人になり、平凡ではあるが慌ただしい日常を生きる人が、まさにその過去を懐かしさとともに思い出すときに湧き起こる感情とよく似ている。そしてそれは、たしかに心静かなときだからこそ起こってくるという意味で、そのタイトルは象徴的でもある。

 おじいさんと一緒に暮らした日々は今のぼくにとって唯一無二の帰る場所だ。だれもが子どもの頃に、あたりまえに過ごした安心できる時間。そんな時がぼくにもあったんだ、という自信が、きっとこれから先のぼくを勇気づけてくれるはずだ。

 一人称の語り手である枝田光輝が、過去の自分を振り返るという体裁で展開していく本書であるが、メインとなる舞台は彼が小学五年生のときの時代となっている。いわばこの時点が彼にとってのターニングポイントということになるのだが、そこで生じた大きなイベントは、大きく二つ挙げることができる。そしてそのイベントは、それぞれある人物との出会いという形でもたらされるものだ。そのひとりは、そのとき同じクラスだった押野広也。そしてもうひとりが、上述の引用にも出てくる枝田の祖父である。

 それまで母親とずっとふたりだけの暮らしをしてきたせいなのか、学校における枝田の立ち位置は、さえない男の子というものだった。何の取り柄もなく、とくに目立つような要素の何もない――それどころか、いつもどこかもの悲しそうなイメージがつきまとい、常に周囲から距離を置かれているような存在だった彼にできた、はじめてと言っていい「友達」が押野という少年だった。だが、そんな矢先に彼の母親が持ち出したのは、今勤めている会社を辞め、今とは異なる場所に引っ越し、今とは異なる仕事をはじめる、という宣言だった。引っ越しをするとなれば、今の学校には通えない。それは、せっかく友達となった押野と別れてしまうことを意味する。それだけはどうしてもいやだという枝田のささやかな主張は、結果として彼の祖父の家から今の学校に通うという案に落ち着くことになった。彼の祖父が本書に登場する経緯は、そういった事情からである。

 あくまで当時の枝田の視点で書かれている本書のなかで、彼の母親の新しい仕事のことや、母親と祖父との微妙な関係や過去のことについて、私たちが知ることのできるのは断片的な情報のみである。だが、そのあたりの説明がなくとも、本書を読み進めていくと、何らかの複雑な事情があったであろうことを推測することはできる。そうした行間を読ませるような表現や構成の巧みさは、本書の大きな特長であると同時に、それこそが本書に貫かれているテーマといっていいものがある。たとえば、上に書かれた枝田の「ささやかな主張」にしても、彼自身が何らかのアプローチをかけたかのような書かれ方をされているが、それまでほとんど母親とふたりきりの生活をしていた彼にとって、母親の意見や主張はほぼ絶対であり、自分の主張でどうにかなるものではない、という諦念めいたものを抱えている枝田ひとりでは、反抗する余地もなかったというのが実際のところだ。祖父の家から通うという妥協案が出てきたのは、彼の担任である椎野先生をはじめとする、彼の周囲にいて、彼のことを気遣っている人たちの助力があったからこそのものである。

 ここまで本書のことを書いてきて察せられるように、枝田にとっての「ターニングポイント」となるふたりの登場人物との出会いは、本書の比較的はじめの部分ですでに語られてしまっている。では、それ以降いったいどんな物語が展開していくのかといえば、それはじつにありふれた――それこそ私のような年代の大人たちが、かつて小学生だった頃に体験したような、本当にありふれた夏休みの光景である。朝のラジオ体操、友達とのたあいのない遊び、ちょっとした冒険ごっこや縁側で食べるスイカ――それらはたしかにどこにでもあるような夏の風物詩であるかもしれないのだが、ここで重要なのは、それらのすべてが枝田にとっての「はじめて」であり、またそれゆえに特別なものであるという点だ。

 本書のタイトルが象徴的なものであると、上述した。日々の生活においてふとした瞬間に訪れる、静寂とともに思い出す過去としての「しずかな日々」――もちろん、枝田が思い出すのが祖父とともに過ごした「しずかな日々」であることは間違いないのだが、それがたんなる音量的な意味合いのことを指しているわけでないことは言うまでもないことだろう。そういう意味での静けさなら、むしろ母親とふたりで過ごしてきた日々のほうが、よほど静かな印象を受ける。あくまで枝田の記憶というバイアスのかけられている過去において、母親との生活には驚くほど音が存在しない。まるで、そこに生活そのものが営まれていなかったかのような無音状態であるのに対し、祖父との生活の記憶には、数多くの音が混じりこんでいる。それはセミの声だったり、仏壇の鉦の音だったり、あるいは雨戸を開けるときの騒がしい音だったりするのだが、こうした五官に訴えるような瑞々しいまでににぎやかな記憶が、しかしながら枝田にとっての「しずかな日々」であるというのは、いっけん矛盾しているかのようでありながら、このうえなく納得のいくものであることを、私たちは理解している。

 なぜなら祖父とともにあった日々の「しずけさ」とは、会話がないことの気まずさというよりは、ただそこにあるだけで安心できる、自分はたしかにここにいていいのだという安堵感とともにある「しずけさ」であるからに他ならないからだ。そしてその記憶が、現在の彼を支える要となっていることにも。

 去年までの学校プールの宿題に、ぼくはあたりまえのように一人で参加していた。――(中略)――楽な宿題だったけど、今のぼくはもう一人でプールに行くことができないかもしれない。だれかと一緒にいるっていうのは、こんなにたのしいって知ってしまったのに、ひとりぼっちに戻るのは大変なことなんじゃないだろうか。

 どれだけ時間が経過しても、まるで昨日のことのように思い出すことができる、ターニングポイントとしての記憶――はたして本書は、あなたのどんな過去の記憶を想起することになるのだろうか。(2013.04.29)

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