【講談社】
『失楽園』

渡辺淳一著 



 およそ普段から多くの小説を読んでいる、読書好きの人達にとって、ベストセラー小説に対する評価はたいてい低いものと相場が決まっている。メディアによる仰々しい宣伝のせいでイメージばかりが先行してしまい、実際に読んでみるとそのギャップに裏切られたと感じてしまう、というのももちろんあるのだろうが、それにしても本書『失楽園』に対する評価の悪さは、いったい何なのだろう。インターネットなどでいろいろな本の紹介関連のホームページを覗いてみると、少なくとも私が見たかぎりでは、本書を高く評価しているページは皆無に等しい(もし高く評価しているページを知っている人は、ぜひ情報提供してほしい)。だが、「中年男の色狂い小説」「文学の名を借りたポルノ小説」「気持ち悪い」といった、ほとんど悪口に近い評価をいろいろ見るにつれ、逆に本書に対する興味がわいてきたのは、私が八方美人男であるとはいえ、なんとも皮肉な話である。

 本書『失楽園』の内容に関しては、いまさらここで説明するまでもないだろうが一応説明するとこんな感じだろう。出版社に勤める久木祥一郎は、カルチャーセンターで出会った松原凛子にぞっこんになってしまい、お互いに結婚している身であることを意識しながらも逢瀬を続けていく。ふたりはうまくやっていると思っていたのだが、逢瀬がだんだんエスカレートしていくにつれて、ふたりの関係は周囲にはすでにバレバレ状態になり、お互いの社会的立場は崩壊したも同然になってしまう。それでも愛し合う気持ちをどうしても押さえることのできないふたりは、最終的に一緒に自殺することで今の恋愛を永遠のものとしたのだった――めでたしめでたし、と言っていいのかどうかは別として、本書を読んでみてまず度肝を抜かれるのは、そのあからさまな性描写の連続であろう。読んでその場面を容易に想像できてしまう、それゆえに妙に生々しく感じてしまう性描写――おそらくその部分に大きな抵抗を感じてしまう読者が多く、だからこそ本書がポルノだと非難されてしまう要因となっているのだろうが、ほんとうにそれだけだろうか。

 心の底から愛し合う男と女が、会社や家庭といった社会的束縛や個人の精神的束縛にとらわれることなく、こころゆくまで性の欲望をむさぼりあう――愛とは何ぞや、といった議論はここでは置いておくとして、人間が肉体という殻にとらわれた生き物である以上、愛する者の存在を強く感じるためには、けっきょくのところ体と体で接し、結ばれるという行為に行きつくことになる。本書に出てくるふたりの赤裸々な関係をまのあたりにして、おそらく読者は現実にある自分とその配偶者、あるいは恋人との関係をあらためて考えさせられることになるだろう。はたして自分は、久木のように、あるいは凛子のように相手のことを愛しているのだろうか、あるいはこれまでに愛されたことがあるだろうか――意識するしないにかかわらず、久木と凛子の関係がある種の愛の極致であると認識しているがゆえに、逆に読者は本書を非難してしまうのではないか。
 本書の存在を肯定してしまえば、これまでの人生で築き上げてきた愛や性に関する認識を、根底から崩すことになりかねない。それはある意味で恐怖だと言ってもいい。ゆえにほとんど生理的な感情で本書を非難する。

 だが、おそらく、それこそ著者のおもうつぼなのだ。

 ものには常に表裏があり、荘厳の裏に潜む淫蕩、静謐の奥に隠されている痴態、道徳の陰に息づく背徳こそが、人生至上の逸楽である。

 男と女が愛し合うこと――そのこと自体を非難する人はまずいないだろう。だが、その裏に必ずあるはずの性の営みについてどのように向き合っていけばいいのか、きちんとわかっている人が(私を含めて)どれだけいるのだろう。べつにセックス三昧がいいとは思わないし、どこかのタレントのように「不倫は文化だ」と声高に訴えるつもりもないが、少なくとも性への欲望に対して、あるいはもっと真摯に考えてみてもいいのではないか、と著者は提案しているように思える。変な形で抑圧したところで、その抑圧されたものはけっして消えるわけではなく、かえって悪い方面で噴出することがあるのは、最近の新聞の社会面を飾る多くの事件を見てもよくわかるはずだ。

 本書の愛の形は、あくまでひとつの提案にすぎない。そのことを意識したうえで読んでみると、そこにあらたな何かが生まれてくるのかもしれない。もっとも、本書のせいで不倫が横行して社会が崩壊する可能性もないとは言えないのだが。(1999.04.10)

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