【小学館】
『始祖鳥記』

飯嶋和一著 



 NHKでかつて放送されていた「プロジェクトX」は、私もお気に入りの番組のひとつであったが、この番組が2000年3月28日の放送開始から、じつに5年以上もの長きにわたって放送されてきた背景には、それだけ多くの視聴者がこの番組に何かを感じ、支持しているからにほかならない。もし万が一、この番組をまだ見たことがない、という方がいらっしゃるならぜひとも一度は見てほしいのだが、この番組が視聴者にあたえる感動は、たとえば新幹線の開発や東京タワーの建設など、戦後日本でおこなわれた画期的事業を陰で支えてきた「無名の日本人」たちの熱い情熱や使命感を、ただたんに「過去の栄光」としてとらえているのではなく、そんな彼らの飽くなき奮闘の積み重ねが、結果として世界でもけっして類を見ない驚異的復興の原動力となったこと、そしておもな視聴者であるはずの多くの日本人たちに、彼らの成し遂げてきた大きな事業が、間違いなく私たちと同じ日本人の手でおこなわれてきたのだという事実を再認識させるところから来るものである。

 けっして遠い過去の出来事ではない、私たちの身近にももしかしたらいるかもしれない、そんな人々のある意味とんでもない発想や行動は、同時に彼らの周囲にいる多くの人たちに大なり小なりの影響をおよぼす。プロ野球で大活躍をする選手へのあこがれが、とある小さな子どもをプロ野球選手の道へと導く力となることがあるように、その番組は日本人がまだまだ捨てたものではないこと、そしてとかく閉塞感のただよう現代において、それでも個人が同じように「無名の日本人」として頑張っていけば、きっと未来は切り開けるはずであると語っているからこそ、多くの視聴者に感動をあたえるのである。

 社団法人日本ハンググライディング連盟(現在は「日本ハング・パラグライディング連盟」)というサイトに載っているハンググライディング・パラグライディングの歴史を見てみると、まず最初に「備前屋幸吉」の名前があるのがわかる。1804年とあるから、時はまだ江戸時代である。「備前屋」とは苗字ではなく屋号で、つまり自分の屋号を名前の上に書くことを許されているほどの才をもつ商人であったことを示しているが、そんな昔の日本人である彼が世界でもはじめての人工滑空機を製作し、じっさいに空を飛んだ人物として――あるいは公式のものではないのかもしれないが――認められているという事実は、ある意味「プロジェクトX」を見るのと似たような感慨深さがある。少なくとも著者はそんな思いをいだいたのだろう。備前屋幸吉を物語の中心に置いた本書『始祖鳥記』の、そのタイトルにこめられた意味は、間違いなく彼が、自分の意思でもって「空を飛ぶ」という行為を成し遂げた最初の人物であることを前提としたものである。

 物語は全部で三部構成となっており、第一部は彼の生まれた備前岡山での子ども時代から、やがて腕の良い表具師として成長しながらも、巨大な凧に似た乗り物をつくり、それに乗って空を飛んでは人心を惑わせたとして役人に捕まるところまで、第二部は、その結果として所払い(財産没収のうえ国からの追放)の刑を受けた幸吉が、かつての友人である源太郎の助けを受けて買積船の水夫となり、これまで買積船と言いながら、じっさいは幕府とその庇護を受けた問屋たちの言いなりになってしまっている現状に対抗し、あらたな海運ルートを開拓していく手助けをするところまで、そして第三部では、ふたたび陸にあがった幸吉が、駿府で木綿をあつかう「備前屋」として大成しながらも、またもや人工滑空機の製作に打ち込み、1804年の正月についに空を飛んでみせるところまでを書いている。それはたしかに備前屋幸吉の一代記とも言うべき物語であるが、本書がたんなる幸吉の伝記で終わっているわけでないのは、その第二部が幸吉の物語というよりも、幕府の保護のもの、大坂から廻送される莫大な下り塩を一手に掌握している四軒問屋による独占状態をなんとか突き崩そうと奮闘する、地廻り塩問屋のひとりである巴屋伊兵衛と、そんな彼のためにこれまでの慣習を捨て、新しい塩廻送ルートを確立した源太郎たち船持船頭の物語となっている点からもわかる。

 幼少の頃より身近な物事よりも、より深く、より遠くに目を向ける想像力を発揮してきた幸吉の、空を飛ぼうという途方もない試みは、彼自身の純粋な気持ちとはまったく関係ないところで、腐敗した備前藩を糾弾する怪鳥「鵺」騒動と結びつけられてしまい、そのために幸吉はなかばわけがわからないままに刑を受けることになってしまう。他人とはあまりにも規格外なものの考え方をするがゆえに、いつも世間から大きくはみ出してしまう幸吉の不幸がそこにあるわけだが、第一部がそんな彼のもたらした混乱を書いたものであるとすれば、第二部は幸吉の「鵺」騒動、さらには人間であるにもかかわらず空を飛ぼうと試みたという、なんとも馬鹿げた行為が、伊兵衛や源太郎といった人物を間接的に触発し、今の公儀幕府や一部の問屋たちによる腐れきった支配構造を大きく突き崩していく原動力となっていった例として書かれたものである。同じ「混乱」であっても、人々を悪い方向へ引っ張っていくものもあれば、より良い方向に引っ張っていくものもある、という事実――それはある意味、人間がこれまでにない新しいことに挑戦しようとするときの流れとよく似たものがある。

 そう、本書が書かれた背景にあるのは、たったひとつの疑問である。なぜ幸吉は、空を飛ぼうとしたのか――物語の最初には「なぜ」などという疑問さえ浮かばなかった幸吉を中心に、自身の行為によって思いがけず影響を与えてしまった多くの人たちをその周囲に配置することによって、幸吉自身に「なぜ」という疑問と、その答えを探らせるためにこそ、本書は生み出されたといっていいだろう。

 いずれ永遠が目をさませば、この生は即座にかき消える。その時がいつやって来るのか、全くわからない。だが、必ずそれは訪れる。何かに納まってしまうことは、それからの生をただ無駄に費やすことのようにしか思われない。――(中略)――飛ぶことは、すべてを支配している永遠の沈黙に抗う、唯一の形にほかならなかった。

 本書にかぎらず、著者の作品のなかにはとかく時の権力者たちの堕落しきった支配構造と、そんなどうしようもない堕落をなんとかしようと対抗する小さな勢力という図が描かれることが多い。それはたしかに物語を盛り上がられる大きな要素のひとつではあるが、こと本書においては、幸吉という「空飛ぶ表具師」の視点を借りることで、読者はそうした世間一般のものの考え方がいかに小さく、とるに足らないものであるかということを痛感する。

 今ではスポーツのひとつとして、あたり前のように行なわれているハンググライディング――空を飛ぶという、ただそれだけのことが罪となってしまう江戸時代と比べれば、たしかに私たち人間は少しずつではあるが前に進んできたと言うことができるのだろう。人間が生きるとはどういうことか、というすべての小説が必然的に背負う運命にあるテーマ――その答えの一端が、本書のなかにはたしかに描かれている。(2005.05.07)

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