【新潮社】
『白バラ四姉妹殺人事件』

鹿島田真希著 



 ひと昔前のことになるが、江崎グリコのロングセラー商品と言える菓子「ポッキー」のCMで、若い女性タレント四人を同時に起用して「ポッキー四姉妹物語」なるキャンペーンをおこなっていたのを覚えている。かなり大々的に展開されたキャンペーンで、私のほかにも記憶にあるという方は多いだろうと思うのだが、私がとくにそのキャンペーンのことを覚えているのは、お菓子のCMであるにもかかわらず、その背景に四姉妹という設定を置き、それぞれの姉妹の個性があり、そしてその四人によって何かが展開していきそうだ、というドラマのようなものを感じたからである。それは、何より物語性というものを愛する私にとって、後にマルハペットフーズが創立十周年を記念して製作したCM『民子』を目にするまでは、何か私の心をくすぐる要素をもっていたことはたしかなのだが、では具体的にどんな物語があったのか、ということをあらためて考えてみると、どうにもよく思い出すことができない。どころか、とくにアイドルというものに大した価値を置いていない私は、その四姉妹にそれぞれ誰が起用され、どんな設定をもつ姉妹だったのか、ということさえもあまり覚えていなかったりする。

 つまり、今の時点で私が覚えているのは、「四姉妹だったこと」「ドラマ性があったこと」ということだけであって、じつは四姉妹の誰かがべつの姉妹と入れ替わっていたとしても私にはわからないし、そもそも四姉妹という設定でなかったとしてもかまわなかったのでは、とさえ思っている自分がいる。「ポッキー四姉妹物語」は、たしかに物語性を感じさせるものはあったが、それはCMという映像ありきで存在しえるものであり、たとえばこれが小説といった文字媒体になったとき、はたしてどこまで四姉妹の個性を掘り下げていくことができるのか、という意味では、やや頼りないものでしかなかった、と言うことができる。

 さて、本書『白バラ四姉妹殺人事件』である。「四姉妹」と書かれているからには、当然のことながら四姉妹が作中に登場するのだろうと思ってしまうのだが、本書に登場するのは「婦人」「男」「女」「婚約者」といった、名前のない抽象的な登場人物のみであり、唯一彼らが読んでいる地方新聞に連日掲載されている「四姉妹事件」が、わずかにタイトルとのつながりを思わせるものである。長女の婚約者であったはずの男が、じつは一番若い四女とつき合っていることが表沙汰になり、激昂した母親が彼を鈍器で殴打、気を失って倒れた男を見た四女がそれにショックを受け、自殺を遂げた――それが「四姉妹事件」の顛末であると、本書の登場人物は語るのだが、それは登場人物たちにとっては、私たちが常日頃からニュースや新聞でまのあたりにする事件のひとつにすぎず、興味深くはあってもけっしてその当事者として事件そのものと絡むことのない、あくまで別世界の出来事としての位置づけでしかない。

 にもかかわらず、本書のタイトルがなぜ『白バラ四姉妹殺人事件』となっているのかと言えば、まず考えられるのが、登場人物たちの没個性という特徴である。本書を読み進めていくと、「婦人」というのは「男」と「女」の母親であり、「婚約者」とは「女」の婚約者であるらしいことがわかってくるのだが、ある人物を特定する固有名詞をあえて廃したうえで、そんな彼らの日常を追っていくうちに、同じくただの新聞記事、ひとつの記号でしかなかった「四姉妹事件」の顛末が、いつのまにか彼らの日常生活のなかに混じりあい、彼らが本当は何者なのか、そして「四姉妹事件」と彼らをへだてる境界線がどこにあるのかが、かぎりなく曖昧なものとなってしまっていることに、読者はふと気がつくことになる。

 物語に登場する人物の主体性がはっきりと確立されておらず、それゆえに彼らの主体が容易に入れ替わってしまったりする、読み手をなんとも落ち着かない気分にさせるこの手法は、そのデビュー作である『二匹』からつづく、著者独特の持ち味のひとつであるが、こと本書において特徴的なのは、こうした何かの主体を定めることのできない不安定さが、ことごとく女性の登場人物を中心にして生じている、という点である。

 本書のなかに登場する男性は、いずれも自分のやるべきことを自分で決定し、ある種の確信をもって行動に移しているところがある。「男」は一度会社に就職したが、そこをやめて音楽大学に入るための勉強をはじめているし、「婚約者」も「女」に結婚の申し込みをしたからこそ「婚約者」という立場を得ることになった。それに対して女性は、常に受身の立場にその身を置いている。そういう意味で、彼女たちは何者でもないと同時に、何者にもなりえる立場にあると言うことはできるが、はたして彼女たちはそれほど自由な存在であるのだろうか。

「あなたはすごく淫らだ」とか「あなたとは昔どこかで会ったことがある気がする」とか。私はそれを否定したことがない。――(中略)――どんな風に思われてもよかった。自分はとてもありふれていて、どんな風でもないと思っていたから、誰かが私のことをこうだと決めたら、そうなんだと思った。自分で自分のことを決めることがすっかりいやになっていた。

 誰かの妻としての自分、誰かの母親としての自分、誰かの娘としての自分――むろん、女性に限らず人間はかならず何かしらに属するものであり、そこでは一個人としての意思などそれほど重要視されないものであるが、男性と女性で、どちらがより「何かに従属している」と感じさせられるかといえば、それはやはり女性ということになるだろう。そのもっとも典型的な例は、婚姻届を提出するさいに、ほとんどの女性が男性の姓に変更する、という事実で、それはある意味でそれまでのアイデンティティを喪失することでもある。主体性――自分という個の移ろいやすさという点で、男性よりも女性のほうにその比重を置いている本書が、もしそうした問題について意識的であるとすれば、本書はまさにその冒頭から、徹底してその曖昧さ、不確定さを前面に押し出すことで、逆にそのことを強調することに成功したと言うことができる。

「ポッキー四姉妹物語」の姉妹たちに、確固とした主体を感じ取ることができなかったのは、あるいは彼女たちとつながるはずの男性――父親の存在がはじめからなかったか、あるいは希薄だったせいだろうか。いずれにせよ、本書に登場する家族も、彼らが興味を寄せる地方新聞の「四姉妹事件」の姉妹たちも、父親が不在で「喪に服している」という意味では似たような環境にあった。私たちがあたりまえのように感じている自他の境界線――自分を規定するあらゆる境界線が、ことごとく曖昧になっていく奇妙な世界での物語が、どんな形で収束していくことになるのか、非常に興味深いものがある。(2005.11.17)

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