【講談社】
『蚊トンボ白鬚の冒険』

藤原伊織著 

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<そうだよ>シラヒゲがくりかえした。<恋と冒険があった>

 私たちが退屈しながらもくり返している、たいして変わりばえのしない日々の生活を日常とするなら、冒険という要素は非日常に属するものである。私たちがふだん、生きていくためにはたらかせている理性や論理的思考が通常の状態だとするなら、恋という要素は私たちの内におこった異常な状態を指すものである。冒険や恋といったものが、その人にとってどれだけ重要なことなのか、それは個々の価値観にゆだねられるべき問題であるが、冒険が世界と積極的にかかわっていこうとする行為であり、恋が他人と積極的にかかわっていこうとする行為であることを考えれば、恋も冒険も今ある状態から何らかの変化があることを望む人間独自の行動だということができる。逆にいえば、現状維持を望む人間には冒険も恋も成立しえない、ということでもある。だが、人はいつまでも世界や他人から切り離されて生きていけるほど孤独に慣れているわけでもないし、またいつまでも孤独に生きていけるほど強いわけでもない。

 人間は自我を意識した生物であるが、自我を意識するということは、自分がユニークであること、自分がこの世でたったひとりであると意識することでもある。究極的に自分のことは自分にしかわからないし、どれだけ強く望んでも、自分以外の他人のことを完全に理解することもできない。生きるということは、必然的に孤独であることとつながっているのだ。だが、それゆえに人間は自分以外の何かにつながっていたいと望む。それは恋人だったり、どこかの組織だったり、あるいは家族といったものだったりするわけだが、ひとつだけたしかなのは、その結果が当人に何をもたらすのかはともかくとして、そうしたつながりを求める気持ちが冒険や恋を生み出していく、ということである。

 水道の配管工である倉沢達夫が、同じアパートの隣に住む黒木という男がタチの悪そうな若者たちに絡まれているのを目にしたとき、彼の右手が勝手に動いて黒木の窮地を救った。それも、パチンコ玉を指の力だけで弾き、相手のナイフをはねとばすという、尋常でない方法で……。本書『蚊トンボ白鬚の冒険』に登場する達夫が予想もしなかった能力――それは、彼の頭の中に住み着いた「白鬚」と名乗る蚊トンボの能力だった。人間の言葉を解し、達夫の気が抜けそうになるほど楽天的なおしゃべりをしかけてくるこの「白鬚」には、人間の筋肉をコントロールし、瞬間的にではあるが超人的な力を引き出すことができるという。本書をもっとも特徴づけているのが、この能天気な蚊トンボの存在であることは間違いのない事実であり、それゆえに本書のタイトルもしごくまっとうなものであることもたしかだが、この「白鬚」と、その宿主となった達夫との関係を考えたとき、本書が単純にファンタジーやSF的な設定を持ち出したわけでなく、そこに人と世界とのかかわり、人と人とのかかわりについて、深い示唆があることが見えてくる。

 達夫には、かつて陸上選手として将来を有望視されていたにもかかわらず、先天的な心臓の欠陥によってその道を閉ざされてしまったという過去を背負っている。彼にとって、彼をとりまく世界はやっかいなことを持ち込んでくる理不尽なものでしかなく、それゆえに彼の基本姿勢はきわめて厭世的――自分から積極的に世界や他人とかかわろうとしない、というものである。だが、だからといって達夫が自分のことしか考えていない人物であるかといえばけっしてそうではなく、むしろ相手にとって自分の存在がどのような影響をおよぼすのか、という点に妙に気を使うという一面ももっている。達夫は自分が生きているという状態が、それだけで世界や他人とのかかわりを少なからず持ってしまうものであることを、おそらく誰よりも理解している。そして、だからこそそのつながりを極力小さくしていくような生き方を選んでいる。

 いっぽうの「白鬚」の性格(といっていいのかどうかはともかく)は、一見すると達夫とは正反対なポジションにいる。達夫はその後、じつはプロのデイトレーダーであり、複雑な事情で暴力団に半年も追われている黒木の事件に否応なくかかわっていくことになるのだが、そもそもそのきっかけをつくったのは「白鬚」の投げたパチンコ玉であり、それからも何かにつけていろいろな事柄に興味を示し、ついには達夫にはチンプンカンプンな経済や株式投資の話や、パソコンやインターネットのことまで学習していってしまう「白鬚」は、まさに世界と積極的につながっていこうとする姿勢をもっている。だが、その気になれば勝手に達夫の体を動かしたりできるはずの「白鬚」は、基本的に本人の許可なしにそうした横暴をはたらいたりしない。もちろん、その能力が限定的であることもあるが、「白鬚」もまた、自分が生きていることでこの世界に何らかの影響をおよぼしていることを意識し、とくに宿主である達夫とのかかわりについて妙に気を使おうとする、という点で、じつはこのふたりは似たもの同士な部分があるのだ。

 そもそもよく考えてみれば、蚊トンボが人間の脳に住み着いて、それで自我に目覚めてしまう、ということ自体がどちらにとっても理不尽極まりない出来事である。だが、達夫も「白鬚」も、その理不尽さをとりあえず受け止めたうえで、それでもなお生きていくしかないという自覚をもっている。達夫と「白鬚」とのあいだに生まれた理不尽なつながり、そしてそこから生じていったさまざまな因果――面倒なこと、やっかいなことに巻き込まれながらも、それでもそのことを何かべつのものに責任転嫁することなく、正面から受け止めて、かつ自分らしいやり方で対処していくふたりの姿は、そのまま人間がこの世で生きていくこと、そのあり方を映し出してもいるのだ。

 経済小説であり、ハードボイルドであり、また「白鬚」の能力との関係でアクションの要素も高い本書であるが、達夫と「白鬚」の関係というものに注目するなら、それはとかく後ろ向きな生き方をしてきた達夫というひとりの「子ども」が、「白鬚」とのかかわりを機に少しずつ世界や他人とのかかわりをとらえなおしていこうとする作品であり、それはある種の青春小説だと言ってもいいだろう。だが、そうすることではっきりしてくるのは、達夫にとって譲れないものが何なのか、ということであり、それは彼の生き様をよりいっそう際立たせることになる。そしてけっして単純とは言いがたい自分と世界とのかかわり、自分と他人とのかかわりを、傷つき苦悩しながらも模索しつづけていく、という点では、例の黒木にしろ、彼を追う立場であるヤクザの瀬川にしろ、ことあるごとに達夫とのつきあいを深めようとする真紀にしろ、そして執拗に達夫をつけねらう敵役のカイバラでさえ、同じである。

<あんた、まだ前進するつもり?>
「あたりまえじゃねえか。――」

 世の中をもっと効率的に生きていこうとするなら、余計なことには首をつっこまない、何の変化もない生活をしていくに越したことはない。だが、生きている以上、必ず何らかの形で人は世界や他人とかかわりあっていかざるを得ない。その未知なる領域には、当人にとって害となるものが待ち受けているかもしれないが、ひとりの人間として本当に大切なのは、そうした理不尽な事柄に直面してなお、譲るべきものとそうでないものとを明確にできるかどうかにかかっている。そういう意味で、本書に登場する人たち――とくに達夫と「白鬚」は、最高にカッコいい生き方をしたと言うことができるだろう。(2005.07.08)

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