【新潮社】
『鹽壷の匙』

車谷長吉著 



 小説というものが、多かれ少なかれ著者の自己顕示欲の産物であることに疑いの余地はないが、著者の身のまわりの事実を書き記す私小説は、その最たるものだろう。だが、ただ自分の身のまわりの事実を書き記すだけであれば、エッセイでも随筆でも、極端なことを言えば日記でも同じことである。これらのものと私小説というものの違いをひとつ挙げるとすれば、それは自分のことに主体を置くか、それとも他人に主体を置くか、ということではないだろうか。

 本書『鹽壷の匙(しおつぼのさじ、と読む)』のあとがきには、これらの作品が私小説である、と書かれている。それで急に、私小説とは何なのか、といったことをふと思ったわけなのだが、じつは、私はこのあとがきを読むまで、これらの作品が私小説だとは思いもしなかった(あるいは、著者のそのことばは一般的な意味での「私小説」を指しているのではないのかもしれないが、そこまでは私の知識のおよぶところではない)。私がこの小説を読みながら思ったのは、出てくる人物の妙なまでの人間臭さである。それは、言いかえれば人間であるがゆえの泥臭さ、ということでもある。本書に出てくる人物の中に、輝かしい人生を歩んでいる者は誰ひとりとして存在しない。第二次世界大戦での敗戦からまだ完全に立ちなおっていない日本が舞台であることもあるだろう。それぞれの物語で、それぞれの人物が、それぞれの、けっして良いとは言えない境遇のなかで、怒ったり泣いたり悩んだりしながら生きている様子を、何の虚飾もなく、まさに方言まるだしにして描いてみせているのである。『鹽壷の匙』の登場人物に対して、たんに物語という虚構上の人物であるという感じがほとんどしなかったのだが、これが著者の私小 であるとするなら、上述した私小説としての役割は充分に果たしていると言える。

 著者のあとがきの言葉を借りるなら、「私小説は毒虫のごとく忌まれ、さげすみを受けて来た」そうであるが、読者が読書というものに、現実からの一時的な逃避を期待する現代においては、それもまた仕方のないことだろうと思う。だが、そのすぐあとに「私はそのような言説に触れるたびに、ざまァ見やがれ、と思って来た」などと言われると、もはや返す言葉もない。

 そう言えば、本書の登場人物もだいたいが頑固で、であるがゆえに不器用だったっけ。(1998.11.19)

ホームへ