【朝日新聞社】
『シンセミア』

阿部和重著 



 この書評をご覧になっている皆様は、ちゃんと朝食をとっているだろうか。もしかしたら、寝坊常習犯でついつい朝ご飯を抜いてしまうことが多い、という方もいらっしゃるのかもしれないが、これはよくない。何より空きっ腹では体も頭も調子は出ないし、調子が出なければうまくいくものもうまくいかない。一日の始まりに活力をつける、という意味でも、毎日しっかりとした朝食をとり、仕事や勉強に思うぞんぶん励んでもらいたいものである。

 ところで朝食というと、決まって話題のひとつとして取りあげられるものとして、「パンかご飯か」というものがある。ホテルのモーニングなどは、たいてい和食と洋食の二種類があってどちらかを選ぶようになっているし、私たちが小学校や中学校でさんざんお世話になってきた給食にしても、パンが主食のメニューとご飯が主食のメニューとが、だいたい半々になるような献立だったように思う。ちなみに私の場合、昔はもっぱらパン党だったが、今はすっかりご飯党である。まあそれはともかくとして、そもそも米を主食としているはずの私たち日本人が、ではいったいいつからパンも主食とするようになったのか、ということを考えたとき、それはやはり戦後の復興にともなって、急速な勢いで私たちの生活に入り込んできた西欧文化の影響だということになるのだろう。

 だが、こうしたパンの主食化が、たんに西欧文化の影響ということだけで説明がつくわけではない。なぜなら、戦後よりもむしろ明治時代の頃のほうが、西欧文化の影響力はよっぽど大きかったはずであり、となれば、問題は西欧文化の流入だけでなく、第二次世界大戦における敗戦が、それまで日本がつちかってきたはずの独自の文化をのきなみ無価値なもの、間違ったものとして破壊してしまった、という点のほうにこそあると言えよう。戦争、そして敗戦という、きわめて人為的な災害によって、私たちの社会は大きく歪んでしまったのである。

 本書『シンセミア』のなかで登場する神町という、山形県にある小さな田舎町はある意味、上述した戦後日本の歪みを一身に背負って発展してきた場所であると言うことができる。そもそもこの町で唯一のパン屋を営む田宮家の人々が、町の有力者たちと結びついてこの町における強い影響力をもち、また裏でパン屋がやりそうもない、汚い仕事もいろいろとこなしてきた、ということ自体、おおいなる歪みを象徴しているのである。

 かつて占領軍の駐屯地でもあったこの町で、パン職人として駐屯基地で働いていた「パンの田宮」の創業者、今は故人である田宮仁は、当時アメリカ軍関係者との強いコネをもっており、また地元のヤクザとも固く結びついた結果、たんにパン屋としての仕事を順調にこなしてきただけでなく、さまざまな意味で神町における勢力を磐石なものとしていった――こうした過去の後ろ暗い歴史を紹介することからはじまる、この一種の現代神話を思わせるような物語は、田宮家を中心にとらえるならば、戦後三代にわたってつづいてきた田宮家の没落を描いたものであり、同時にそれは、歪みに歪んで当事者たちでさえがんじがらめになっていた過去の悪しき因習からの解放を意味するものでもあるのだが、こと本書において重要なのは、田宮家の過去ばかりでなく、本書に登場する30人以上にもおよぶ主要人物たちが、都会から切り離され、とくに面白い娯楽があるわけでもない東北の小さな町のなかで、それぞれ鬱屈した感情を内に秘めながら、さまざまな悪徳を重ねてきた、という点である。

 そんな田舎町でたてつづけに起こった事件――自殺、交通事故死、そして失踪という、普通に考えるなら、大都会でもない辺鄙な地域にはおよそふさわしくないように思える出来事は、表面上はあくまで平穏がつづいていた神町にとってはきわめて異例で、そして不吉な出来事であるのはたしかであるが、しかし物語が進むにつれて、まるで薄皮を一枚一枚はがすかのようにあきらかになっていく、住民たちの隠された悪癖をまのあたりにした読者は、この三つの事件が、いわば来るべき大きな破局の序章でしかないことを思い知ることになる。徐々に過激化していく盗撮グループ、産廃処理施設の是非をめぐる有力者たちの不穏な動き、ドラッグ、恐喝、不審火、不倫、淫行、幼女偏愛――何代にもわたってその土地で暮らしてきた、言ってみれば隣近所すべてが知り合いでもあるはずの住民たちがそれぞれに抱える、けっして他人に知られたくない陰湿な情念が、まるで堰を切ったかのように溢れ出し、物語はやがて、取り返しのつかないところにまで突き進んでいく。その様子は、まさに圧巻である。

 はたして、高校教師であり産廃処理施設反対派の中心人物でもあった広崎正俊の自殺は、ほんとうに自殺だったのか。会沢光一の交通事故死を引き起こした急性心筋梗塞は、ほんとうに霊のしわざなのか。松尾孝太はいったいどこへ行ってしまったのか。そして物語冒頭で語られるある殺人事件は、いったいどのような意味をもつのか――いっけんすると、いかにもミステリーを思わせる物語であり、じっさい本書のなかで提示される謎や伏線が、その物語のなかですべて解明されていくという意味では、きわめてミステリーとしての色彩の濃い作品であることはたしかだが、問題なのはそれらの謎がどのように解決され、あるいは多くの小さな伏線がどこでつながってくるのか、ということではなく、むしろ真相があきらかにされないことによって引き起こされる、住民たちのさまざまな憶測や噂が、まるで風船を膨らませていくかのように、だんだん禍々しいまでの迷妄を生み出していく、という点である。

 それまでの著者の作品とは異なり、三人称の視点、それも複数の登場人物へと次々と主体が移り変わっていく視点を使って書かれた本書は、それゆえにあくまですべての登場人物たちと一定の距離を置いており、そういう意味ではこのうえなくリアルな視点をもっていると言える。だが、神町の住民たちが抱く妄想が、UFOや心霊現象といった非現実的存在と結びついていった結果、たとえば地震や洪水といった自然災害さえもが、なんらかのたたりの産物だとされていく。いわば、虚構が現実を凌駕していくという逆転現象が、本書でのなかで発生しているのである。そして、そうした現実と虚構との境界のあいまいさ、というのは、たとえば『インディヴィジュアル・プロジェクション』にしろ、『公爵夫人邸の午後のパーティー』にしろ見受けられた、著者の主要なテーマであるが、文字どおり現実が虚構によって食い尽くされ、もはや真相があきらかにされただけでは後戻りのできないところにまで突き抜けてしまったのは、おそらく本書がはじめてではないだろうか。
 あるいは、こんなふうに言うこともできるだろう。本書の真の中心にあるのは、「神町」というご大層な名前を冠しながら、人々のどうしようもない俗っぽさをたっぷりと詰め込んだ爆弾であり、物語は、まるで導火線に火をつけるがごとく、予定調和としての大爆発へと進むしかなかったのだ、と。

 早急にあきらかにされるべき真相と、ひたすら人前から隠しておきたい秘められた情念とのせめぎあいによって、とんでもなく異常な事態が生み出されていく――アメリカが過剰生産してしまった小麦の市場として敗戦まもない日本を選んだことと、田宮仁がパン屋をはじめたことは、個々をとりあげるならなんら接点のない事実であるが、そこに無理やり接点を見つけ出し、つなぎ合わせてしまうことで、本書のような奇想天外な物語が生まれたのだとするなら、それは醜く歪んではいるものの、やはりひとつの奇跡なのだろう。(2004.03.18)

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