【早川書房】
『死の泉』

皆川博子著 



 私たちの住む世界は、常に変動しつづけている。形あるものはもちろんのこと、正義とか価値観とかいった観念的なものや、自分自身の気持ちでさえ、時の流れとともに、あるときは劇的に、あるときは少しずつ変わっていってしまう。そういう意味で言うなら、古代の神々によって統治されていた神話以降、この世に不変なるもの、不滅なるもの、永遠なるものなど、けっして存在しない。時の権力者がどれだけ財力をつぎこんでも、また優れた科学者がどれだけ知恵をしぼっても、時間の侵蝕から逃れることはできない。私たちは神ではないのだ。
 もし、永遠に変わらないものがあるとすれば、それはこの世に生まれた人間は、いつか必ず死んでいく、という事実だけだろう。

 本書『死の泉』の舞台となるのは、第二次世界大戦中のドイツ。次第に敗戦の色が濃くなりつつあるドイツ帝国の南、バイエルン地方にあるシュタインベルグという小さな村には、ナチスによって設立された「レーベンズボルン(生命の泉)」――未婚のままみごもった女性たちに安心して出産できる場を提供する組織――の施設があった。極端なファシズム思想にもとづく優秀なドイツ民族を選別するための場所であり、SSの種付け場と蔑称される場所でもあったが、恋人を兵士としてとられ、連合軍の空襲によって職と住まいを失ったマルガレーテにとって、頼れるところは「レーベンズボルン」以外にはありえなかった。施設の所長であるドクター・クラウス、清冽なボーイソプラノで歌を唄い、のちにクラウスの養子として育てられることになる、施設の収容児フランツとエーリヒ兄弟、そして奇妙な薬物を投与されつづける少女レナと、その双子のアリツェ――物語の構成要素である、いわくありげな登場人物たち、耳をつけると子供の歌声が聞こえるという「歌う城壁」や、岩塩の廃坑からつくられた、SSの最高機密でもある「黒いカメロット」といった物語の舞台、戦後になってドイツの罪として明らかにされる、ナチスの非人道的な実験がもたらした最先端の医学、そして、ツィゴイネルたちによって語られる、一神教以前の、古き神話や伝説がひとつに混じりあったとき、そこにはかつて見たこともないようなスケールでありながら、けっして破綻することなく――それこそ神話であるかのように流れていくひとつの壮大な物語が現出する。それは、かつて神々が享受し、しかしたったひとつの予言によって失われることになる永遠への挑戦でもある。

 ホルマリン漬けされた奇形児、脇腹で接合された双頭のネズミ、そして成人してなお天使のようなボーイソプラノで歌を奏でる男――物語は、過去の歴史を舞台としながらも終始、非現実的な雰囲気を保ちつつ続けられていく。その幻想的とも言える雰囲気づくりにもっとも貢献しているのがクラウスの存在であろう。「レーベンズボルン」の所長であり、医学博士であり、財閥の御曹司でもあるクラウスは、まるで万物の父である神ヴォーダンのようにその権力を振るい、マルガレーテを、その息子のミヒャエルを、フランツとエーリヒを、レナとアリツェの心と体をつくりかえていく。クラウスの永遠に対する執着心は病的と言っていいほどすさまじく、また、金髪碧眼のアーリア民族こそがもっとも優れた、それゆえにもっとも美しくあるべきだというナチスのファシズムとも、磁石のN極とS極であるかのように噛み合っている。

 そして、戦後。彼の永遠に対する妄執は、ますます激しいものとなっていく。

「アメリカは、まあ、一応ファッショではなかった。しかし、コマーシャリズムによる物質崇拝と、暴力と、単純な野蛮な正義感に、私は共鳴できなかった――(中略)――ようやく帰国して、故国もまた、同じ体質に変わりつつあることを痛感した。物、物、もとめるのも物ばかりだ。――(中略)――美こそ、私が求めているものなのです。美は不変だ」

 彼の中には、上述する美が、あくまで彼自身の個人的な価値観でしかないという事実が完全に欠如しているし、そんな美を無理やり押しつけられる子供たちの気持ちなど、ある意味独裁者である彼にはもとより眼中にない。かつて、神々のひとりであるロキが、巨人族の女に産ませた三人の子供――狼のフェンリル、蛇のヨリンゲル、からだの上半分は生きて下半分は死んでいるヘル。ひとつの予言がフェンリルをして、万物の父であるヴォーダンを死に到らしめると告げたとき、神々はフェンリルを、呪法で編み上げた紐で縛りあげることには成功した。だが、最後には予言は成就され、神々による永遠の時間は終わりを迎えることになる。

 日本が戦中に犯した人体実験の罪と、正義の名のもとに傍若無人にふるまう連合軍のエゴといった、きわめて社会的な解釈から、単純に、クラウスへの復讐に燃えるフランツとエーリヒ兄弟が迎える結末への感想まで、本書は非常に幅広い読み方ができる傑作であり、また非常に深く考え抜かれているミステリーとしても優れた作品であると言える。

 最後に、本書は「あとがきにかえて」という章までがひとまとまりの物語である。ここを見逃すと、本書に仕掛けられた最大のどんでん返しを見失うことになるので注意してほしい。(1999.08.07)

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