【新潮社】
『ギンイロノウタ』

村田沙耶香著 

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 アイデンティティとは、自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であるという認識のことであるが、この「自分が自分である」という認識の大前提として必要となってくるのが、他者の存在である。自分がいて、自分以外の他者がいて、そのふたつを比較するという視点によって、はじめて自分と共通しているところや、異なっているところが見えてくる。そうした自他の差異を認識することが、アイデンティティ形成の第一歩だと言うことができる。

 ところで、この「他者」とは何なのか、ということを考えていくと、それは「自分と同じ人間」ということになる。自分と同じような姿形をしていて、似たような言葉を話し、コミュニケーションをとってくる存在――つまり、自他の差異を認識する前段階として、私たちは必然的に他者に対して共通する部分を求めるのだ。この、目の前にいる他者は、自分と同じ人間である、という認識は、人との付き合いにおいてはあまりにあたり前のことすぎて、ふだんは意識することもないのだが、たとえば私たちが石や木などとコミュニケーションをとったりしないのは、相手が自分と同じ人間ではないという認識があるからに他ならない。

 自分と他者との差異が見えてくれば、その相手とどのくらいの距離をとればいいのかも見えてくる。だがそれ以前に、相手は自分と同じ人間であるという認識がもてなければ、そもそも他者を「他者」として認識することすらない。そしてそれができなければ、自分が自分であるというアイデンティティは、自他の差異を認識できないまま自分勝手な方向に際限なく膨らんでいくことになる。本書『ギンイロノウタ』は、表題作のほかに『ひかりのあしおと』の二作を収めた作品集であるが、本書に登場する一人称の語り手に共通しているのは、徹底した「他者」の不在によって、自分自身を「人間」として見ることができなくなった者が抱える狂気である。

 なぜ私は膣にペニスをいれることができなかったか。なぜ私は言語というもので人と絡み合うことができなかったか。私が選ばれた人間だからだ。私はたった一つの尊い手段を与えられていて、迷わずにここにたどりつくために、他の道は全て封鎖されたのだ。

(『ギンイロノウタ』より)

 小さい頃に「ピンク色の布地に包まれた怪人」にいたずらされ、公園の公衆トイレに閉じ込められて以来、せまり来る「光の人型」と妙な呪文に悩まされるようになった『ひかりのあしおと』の語り手にしろ、幼いころから男の欲望の視線を集める「女としての身体」を夢想し、新聞のチラシから男の目玉だけを切り抜いては押入れの天井に貼り付け、そのなかで自慰行為にふける表題作の語り手にしろ、他者の存在――彼女たちの年齢であれば当然あるべき同級生やクラスメイト、友だちといった他者との人間関係がこのうえなく希薄で、それゆえに物語としてはどこにも向かっていくことのないまま、自身の内側へとひたすら閉じていく、というのが本書の大きな特長のひとつとなっている。

 たとえば『ひかりのあしおと』の語り手は、友だちをつくるのは昔から下手だが、恋人をつくるのは上手いと語る。じっさい、彼女は隆志という男と付き合っていて、呼び出されてはステディな関係を取り結んでいるのだが、そこにある関係は、相手のことをこのうえなく大切な人として認めたうえで成立する恋愛感情というよりも、お互いのもつ欲望を満たすためにそれぞれがお互いを利用するという関係に過ぎないことが見て取れる。男は語り手の女としての体が、語り手は光への恐怖を忘れさせてくれるという事実が重要であって、極端な話、相手が誰であってもさほど大きな違いはない。だからこそ、語り手の「レンアイ」はけっして長続きせず、相手が自分の望む以上に自身の内に踏み込もうとすると、とたんにその関係が壊れてしまうことになる。

 そしてもうひとつ重要な点として挙げるべきなのは、語り手の抱えるトラウマをいっぽうで恐怖しながらも、もう一方ではどこかそのトラウマに依存しているところがある、ということだろう。このあたりは『ギンイロノウタ』のほうがより顕著に表われているところであり、語り手の女の子は小さい頃から自閉症的性格をもっていて、ともすると自分の内側に閉じこもってしまうところがあるのだが、そこには彼女の両親が、彼女に対して充分な愛情を注いでいないばかりか、ともすると邪魔者であるかのように扱っていることが大きく作用している。なぜ彼女が両親に嫌われているのか、その理由や経緯については、本書には詳しいことは書かれていないが、あくまで語り手の一人称で進んでいく本書にとって、そういったものはさほど重要ではない。自分がまぎれもない自分であるという認識における、最初の「他者」たる母親や父親が、他ならぬ自分自身を「かけがえのない他者」として見ていないという事実は、彼女自身が人間であるという認識を失わせるものでもある。

 本書に収められたふたつの作品において、いずれも語り手の両親は、まともに語り手のことを見ていないという共通点がある。いっけんすると、語り手のことを気にかけ、愛しているような仕草や表情を見せ、やさしい言葉をかけてはいるものの、子どもに対して向けるべき愛情が欠けていたり、心の奥では別の感情をもっているということを、語り手はこのうえなく見抜いてしまっている。両親に「人間」として認められない語り手は、その代償として自身の抱えるトラウマやコンプレックスにアイデンティティの土台を求めてしまうことになる。だが、それは言うまでもなく間違った認識だ。

 本来であれば、自分以外の多くの他者との付き合いによって、自分が人間であるというアイデンティティが形成されていくものであるが、そうした他者――自分と同じ「人間」としての他者を見る目が、語り手のなかには決定的に欠けている。自分自身の存在を「かけがえのない自己」と見ることができないがゆえに、彼女たちの育てるアイデンティティはこのうえなく歪んだものとなっていく。それこそ、他者の欲望の視線を得たいという理由で「大人の女」に成長することを待ち望み、それが叶わないとなれば、いともあっさりと「自分を安く売る」などという痛々しいまでの発想が出てきてしまう。本書は言ってみれば、その過程の生々しさをこのうえなくリアルに描くことことが目的なのだ。だからこそ、私たち読者はその過程の生々しさ、歪んだ自己が、まったく修正されることなく、自身のなかで暴走していく様子に戦慄せざるをえなくなる。

 誰も自分を見てくれない、まともな人間としてあつかってくれない、という劣等感に対して、なんらかの形で現実との折り合いをつけていくのではなく、歪んだ特権意識として全肯定してしまう――そこにあるのは究極の主観の世界であり、他者の存在しないディスコミュニケーションの世界である。胸のヒリヒリするような、閉じた自己の世界を、ひたすら内側に閉じていったその先に、はたして何があるのか――あるいは本書は、ただ多くの人の目を自分に向けるだけのために無差別殺人を犯した殺人犯の心理を、このうえなく的確にとらえることに成功した作品なのかもしれない。(2009.10.13)

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