【朝日出版社】
『死刑』

森達也著 

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 小説という虚構の形をとったものではあるが、私がこれまで読んできた本のなかにも、死刑をひとつのテーマとした作品はいくつかあった。たとえば、加賀乙彦の『宣告』には、強盗殺人の罪で死刑を宣告された死刑囚が登場するが、死刑を宣告された者の留置所での生活を追い、じっさいに死刑が執行されるまでのあいだにその心のなかで起こった変化を濃密に描くことで、そうした心情に関係なく、悪人として彼らの命を奪う死刑制度の矛盾、そして何より、その矛盾のなかでさらに自身の存在の矛盾をかかえ、正常と異常のはざまでまさに死ぬために生きる死刑囚の姿を浮き彫りにした力作である。また、これはアメリカを舞台とした小説であるが、スティーヴン・キングの『グリーン・マイル』では電気椅子処刑の様子が、またメアリー・W・ウォーカーの『処刑前夜』では薬物投与による処刑の様子が克明に描かれている。

 あくまで小説だろう、と言われればまさにそれまでのことであるし、そうした作品を読んだからといって、死刑をリアルに想像できるなどと言うつもりもないが、では逆に「死刑」という記号のなかに、まぎれもないひとりの人間の死や、処刑される人間の、まさに人間としてのリアルさをどこまで想像することができるというのだろう。小説というものがそもそも人間を、人と人とのつながりを書くものであるとすれば、上述の小説もまた、死刑囚を「死刑囚」という記号ではなく、いずれも生きたひとりの人間としてとらえようとしたものであり、私たちの想像力を補うひとつの触媒でもある。

 私たちの大半にとって、死というものはあまりリアルなものではない。私たちの誰もが、いずれかならず死を迎えるにもかかわらず、その事実から、死そのものから目をそむけ、見ないように考えないように今を生きている。それと似たようなものが、死刑という制度のなかにもある。ただあきらかなのは、死刑は人が人の命を奪うということであり、そういう意味で私たちには、自分の死以上に想像しにくいものだとも言える。私だって小説の世界ならともかく、リアルな現実において人が殺されていくのを見たいとはなかなか思えないし、本気で誰かを殺すという状況など私には想像もつかない。だが、今回紹介する本書『死刑』は、読者に「死刑」から目を背けることを許さない。

 第三者が想像で当事者の心中を語ってはいけない。ならば当事者の話を聞くべきなのだ。でもひとつだけ言えること。この社会の本質は当事者性ではなく、他者性によって成り立っている。――(中略)――当事者の感覚を想像することは大切だ。でも自分は他者であり第三者であることの自覚も重要だ。だって当事者ではないのだから。

 本書のテーマは、まさにそのタイトルにあるように「死刑」についてである。だが、もし死刑の実状を知りたいということであれば、元刑務官や元死刑囚だった人たちの書いた手記を読んだほうが、知識として、情報としてはよほど有効だと言える。なぜなら、彼らはじっさいに死刑という制度を執行する側やされる側にその身を置いたことがあるのだから。では、本書がまったく意味のないノンフィクションなのかといえば、けっしてそんなことはない、という確信がある。

 著者はしばしば本書のなかで、「死刑をめぐるロードムービー」という表現を使う。死刑という制度は、まぎれもない現実のものとして、この世界で執行されている。だが、その実状はほとんどの人々の目から隠されている。じっさい、私たちはいくら望んでも死刑の現場を目にすることはできない。そういう意味で、著者の立場と読者の立場は共通である。そして、この共通の立場にいるという事実が、著者に対する親近感をより強めていくことになる。

 元刑務官や元死刑囚の著作は、知識や情報としては本書よりはるかに優秀である。だが、私たち読者の大半にとって、死刑というのはある種、別世界の出来事であるかのように、その輪郭がはっきりとせず、ぼやけた像しか結ばない。しかし、著者の立ち位置は基本的に読者と変わらない。死刑の当事者ではない著者が、それでもなお死刑とは何か、存続させるべきなのか、廃止すべきなのか、人が人を殺すことを合法化することの意味が何なのかを考え、その真実に少しでも迫ろうとするなら、上述の引用にもあるように、当事者の話を聞いてまわるほかにない。そしてそれを愚直に実践していく著者は、言ってみれば私たちの代わりに死刑と向き合う者としての役割を負っている。そして同じ立ち位置にいるからこそ、私たち読者は著者の死刑をめぐる遍歴を、自分のこととして想像することを容易にしてくれる。いっけん、蛇足としか思えない日常のちょっとした描写、たとえばコーヒーを飲む描写などがしばしば差し挟まれているのも、死刑をリアルな現実として体感させるための装置だ。

 そう、本書は死刑をただの記号ではなく、まぎれもない自分自身の問題として、私たち読者の前に提示してくれているのだ。

 どちらも今のこの世界だ。僕が暮らすこの世界と地続きに、煌びやかなテレビスタジオがあり――(中略)――そしてあの薄暗い処刑場がある。
 その末端に僕がいる。そしてあなたもいる。

 死刑廃止論者、元刑務官、元死刑囚や犯罪被害者たち、政治家や弁護士、教誨師など、死刑に少なからずかかわっている人たちのもとに訪れ、死刑についての話や意見に耳を傾けていく著者の姿勢は、たしかに死刑をめぐる旅という言葉がよく似合う。だが、インタビューをつづけていくにつれてわかってくるのは、死刑という制度の徹底した秘密主義であり、理詰めで考えれば考えるほど死刑の本質からズレていってしまう、という感覚である。そして著者がぶつかる壁は、そのまま私たちにとっての壁でもある。死刑の存置と廃止、どちらかに決めたいと思いながらも、旅がつづくにつれて著者の心は大きく揺れ動く。論理の点でははっきりしている。死刑に論理的な整合性はない。にもかかわらず、それだけでは日本国民のじつに八十パーセント以上が死刑存置の立場をとっていることの説明がつかない。

 犯罪被害者の立場に立てば、少しは被害者のことも考えろ、と思う。だが、死刑囚の立場に立てば、死刑が本当に正しいことなのかどうか迷う。冤罪の問題、司法制度の問題などもふくめ、じつにさまざまな角度から死刑をとらえた本書ではあるが、とくにはっきりとした結論が盛り込まれているわけではない。ひとつ見えてくるのは、死刑存置と廃止、それぞれの意見をもっている人たちが、いずれも自分たちの生きるこの世界をより良くしていきたい、と真剣に考え、悩んでいるという点である。そしてそのためには、私たちひとりひとりが、死刑というひとつのリアル、死刑存置の国に生き、それゆえに死刑囚を間接的にではあれ殺す手助けをしている者のひとりとして、死刑というものに正面から向き合う必要がある。本書の存在価値は、まさにその点にこそあると言える。(2008.06.19)

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