【東京創元社】
『生ける屍の死』

山口雅也著 



 ミステリーにおける「死」とは、物語という名の舞台からの退場を意味する。そして当然のことながら、一度退場した人物は、二度と再び舞台に復活することはない。だからこそ、アガサ・クリスティの傑作『そして誰もいなくなった』は、ミステリーとして成立するのである。そこに用いられている、生と死の隙間を突くトリックは、生と死というふたつの状態が厳密に区別できることが前提となっている世界だからこそ通用するものなのだ。
 また、ミステリーにおける「死」とは、すべての物語がはじまる起点でもある。つまり、何者かによる殺人が起こらないかぎり、原則としてミステリーがはじまらない、ということだ。

 ミステリーというジャンルが抱えてしまった、記号としての「死」の問題――つまり、重大な問題であるはずの人間の死が、書けば書くほど軽くなってしまう、という問題について、ある作家は謎解きよりも読み物としての面白さを追求したり、あるいは社会問題といった題材を取り入れたりすることで、ミステリーの「死」に重みを加えようとし、ある作家は、あくまで謎解きとしてのミステリー、つまり「推理小説」としていかに読者をあっと言わせるような、奇想天外なトリックを仕掛けるか、という点を重視し、記号としての「死」を、あえて問題にすることを避けてきた。
 だが、そのような「死」の問題そのものをまったく無意味にしてしまうようなミステリーが、ここに登場した。本書『生ける屍の死』では、死んだはずの人間が「生ける屍」として復活し、生者と同じように行動したり、思考したりしてしまうのだ。

 舞台となるのは、アメリカはニューイングランド州の片田舎にあるトゥームズヴィル。「墓の町」と名づけられたその土地で葬儀屋を経営しているバーリイコーン家は、祖父のスマイリーの手腕によってトゥームズヴィルの土地に「スマイル霊園」を築いた一族であるが、今、スマイリーの子孫たちにとってもっぱらの問題は、死期の迫ったスマイリーがどのように遺産を分配することになるのか、という一点にあった。
 小さいときに両親をなくし、イギリスでパンクかぶれの生活をしていたフランシスことグリンは、ひょんなことから自分がスマイリー・バーリイコーンの孫であることを知り、それ以来このトゥームズヴィルの霊園で居候として働くことになったのだが、いよいよ祖父の死が間近に迫ったある夜に、亜砒酸による中毒死をおこしてしまう。そして、「生ける屍」として甦ったグリンは、自分に毒を盛ったのが誰なのかを突きとめるために行動を開始する……。

 誰かの死が引き金になって物語が動きはじめる、という点においては、本書もまたミステリーの王道を踏まえた構造をとっていると言えるが、「死者の甦り」という前提がある本書の世界では、死者は必ずしも舞台から退場するとは限らない。事実、グリンは「生きる屍」という形で、自ら犠牲者と探偵役の二役をこなすという異常な事態となるわけだが、これまでのミステリーの常識であった、死んだ者に与えられた役割――もの言わぬ死体として舞台から姿を消す、という役割そのものをひっくり返し、これまでミステリーというジャンルがえんえんと築いてきたさまざまなトリックや仕掛け、謎のすべてを根底から覆してしまう、という意味で、まさに宙返り的な発想の転換を迫られる作品だと言うことができるだろう。

 実際、本書のなかでは古典的な密室トリックや、グリンを死者にした毒殺トリックはもちろんのこと、遺産相続にかかわる一族の微妙な心理戦、死体の入れ替え、変装、ビデオ録画によるアリバイ、壊れた時計の時刻、金庫のまわりにだけ残された指紋、殺人予告の手紙や女性を襲う謎の殺人鬼の存在、双子のトリックなど、これまで使われてきたさまざまなトリックが総出演する。それはもはや使い古された、ミステリーとしては古典的な手口にすぎないのだが、そこに「死者の甦り」という要素がひとつ混じっただけで、とたんにこれまでにない新鮮さを取り戻すことになる。よく考えてみてほしい。殺したはずの人間が突然起きあがり、生前と同じように行動を開始したとしたら……そこには死者自身による殺人の一人芝居も、死者による生者への報復も、あるいは死者の死者に対する報復でさえありえるようになってしまうのだ。
 本書における被害者とは、もはや「被害者」という単純な役割を果たすだけの存在ではなくなってしまったのである。そして、さらに注意しなければならないのは、グリンが自分の死を隠すためにメイクを施したり、血を抜いて防腐剤の溶液を入れたりするエンバーミング処理をして、自分の死をひた隠しにしたように、死者がいったいいつの時点で死んだのか、という可能性も考慮しなければならない、ということだ。もしかしたら、グリン以外にも、生者のふりをしている死者が、混じっているかもしれないのだ。

 いや、それ以前に、死者が甦るという世界において、はたして殺人という行為がどれだけの意味を持つのか――この点については、本書においてもあちこちで指摘している点であり、刑事役をつとめるトレイシーなどは次々と甦っては失踪する死者たちのために、一時期は神経衰弱にまでなってしまうのだが、そこには、読者である私たち「生者」がいつの間にか陥ってしまう「生者」であるがゆえの罠が待ち構えている。
 あるいは、本書のもっとも恐るべきところは、あらゆる意味で常識として認識されている「生きていること」そのものが、ひとつの大きなトリックとして仕掛けられている、という点かもしれない。そして、本書のなかでは、殺人の意味を問う私たちをあざ笑うかのように殺人が行なわれ、殺された死者が甦り、さらに事態を混乱させていく。はたして、生きる屍グリンは、この珍妙な連続殺人を解き明かすことができるのか? そして、グリンはいったいどうなってしまうのか?

 死者が甦る奇妙な世界。わしらは、死者の甦りという前代未聞のやっかいな要素を推理の中に織り込んでいかねばならん。それが、混乱のいちばんの原因じゃ。しかしな、だからこそ逆に、推理の方法はわかっているということにもなる――(中略)――つまり、わしらはもっと、死者の心理を掴まなければならんということだよ。

 死者の心理、というのも妙なことばであるが、本書のなかには、あちこちに「死」を意識させるものがちりばめられているのは事実だ。だいいち、本書の舞台となるトゥームズヴィルそのものが、生者が死者に依存する「死者の町」であり、バーリイコーン一族はそろって葬儀屋という、死と常に向かい合う職業に就いている。グリンもまた、死というものにとり憑かれた人生を送ってきたし、霊柩車によるカーチェイスまで行なわれる始末。そういう意味で、本書の中心となるのはあくまで死者たちであることを、本書はその最初から指摘しつづけているとも言えるが、そこの「死」にはもはや何の重みもないどころか、どこか滑稽ささえ感じてしまうようなものとして描かれている。

 なぜ死者が甦るのか――その理由はたいした問題ではない。重要なのは、死者が甦るという世界のルールを逸脱することなく、どれだけ完璧なトリックを仕掛けることができ、すべての謎があきらかにされるか、という一点に尽きるのであり、そういう意味では、本書はまさにこれ以上はないという本格ミステリーなのだ。
 死者が甦るという、ミステリーの世界においては人を食ったような設定を、あなたははたしてどうとらえるだろうか?(2001.03.03)

ホームへ