【新潮社】
『死者の奢り・飼育』

大江健三郎著 



 私たちがこの世に生きている、というのは、あたりまえと言えばあまりにあたりまえのことではあるのだが、ひとつの生物として呼吸をし、心臓が動いているという意味で生きているという事実と、自分の意識においてたしかに「生きている」と実感できることとは、似ているようで大きな隔たりがある。たとえば、自分と世界とのかかわりあいについて考えたとき、私たちはたしかにこの世に生きているのかもしれないが、私たちのふだんの生活において、接することができるのはその世界のほんの一部分でしかなく、かりにその背後に広大な世界が広がっていたとしても、少なくとも私たちが日々の生活をつづけていくかぎりにおいて、その事実はたいした意味をもつわけではない。いや、あるいは大きな意味があり、つながりがあるのかもしれないのだが、その部分は私たちの視界からは巧妙に隠されていたりして、なかなかまのあたりにすることができないものだったりする。そして私たちにとって、目に見えないものを意識しつづけていくというのは、なかなかに難しいことでもある。

 日々の生活に精一杯で、常にそれに追われているようであるなら、あるいはもっとましなのかもしれない。だが、今の日本という国に生きる私たちは、将来的にさまざまな問題をかかえているとはいえ、とりあえず食うに困ることはなく、よほどのことがないかぎり飢え死にすることもなく生きつづけていける。そんなとき、呼吸し、そのなかに血液を巡回させ、たしかな肉体をもつ自分という存在は、あるいはその肉体に宿っている「私」という意識は、世界とのつながりをどうやって保っていけばいいのだろうか、とふと考える。世界のほんの一部としかかかわることができず、おそらくその生涯をかけても、見える世界の大きさに限界がある私たちは、いわば見えない柵や壁に囲まれているのと、じつのところ大差ない生き方しかできていないのかもしれない。

 生きている人間と話すのは、なぜこんなに困難で、思いがけない方向にしか発展しないで、しかも徒労な感じがつきまとうのだろう。と僕は考えた。

(『死者の奢り』より)

 今回紹介する本書『死者の奢り・飼育』は、表題作をふくむ六つの短編を収めた作品集であるが、いずれの作品においても共通して言えるのは、語り手や中心人物がそれまで認識していた小さな世界が、外部からの闖入者によってかき乱され、そのことでその外部とのつながりができるのではなく、かえって断絶が深まってしまうという過程であり、闖入者である存在とけっきょくはわかりあえないというディスコミュニケーションの雰囲気である。たとえば、『他人の足』はそのあたりの構造がはっきりしている短編で、脊椎カリエスで歩くことのできない未成年患者がいる療養所は、社会から隔絶された小さな世界だったのだが、そこにひとりの学生が「闖入者」として入院してくることで、語り手が言うところの「粘液質の厚い壁」に亀裂が入り、それまで同じ病気の者たちとおとなしく生きていた語り手が孤立していくという内容である。

 患者たちにとって療養所は世界のすべてであり、その外の世界で起きている事柄は、少なくとも彼らにとって何の意味もなさないものであったし、それゆえにそこに関わっていくという意識もなかった。だが、その外の世界から入ってきたひとりの学生が、自分も含めた患者たちが「犬のような扱いを受け」ていることを意識させるために、患者たちを集って外の世界とのつながりをもたせようと地道な活動を開始する。その成果はある程度実を結び、その活動が新聞で紹介されたりもしたし、その活動を頑なに拒否していた語り手も、徐々に学生への期待をつのらせていく。だが、その後学生が奇跡的に、自分の足で立って歩けるようになったとたん、それまで築いたきたつながりは一気に崩れ、小さな世界はふたたび閉ざされてしまう。

 自分で歩けない患者と、その世話をする看護婦からなる世界のなかで、当初学生は「闖入者」だった。だが、彼も同じく自分では歩けないという点で、少なくとも他の患者たちと共有できるものがあったし、それこそがお互いを結びつける唯一のものだった。学生は、おそらく自身の活動――言葉と熱意といういかにも人間らしい行為によって、患者たちとのつながりを築いたと思い込んでいたのだろうと推測できるが、それらは語り手の世界ではほとんど意味をなさないもの、理解できないものであることが、物語の最後に提示される。それは語り手の「自分の足の上に立っている人間は、なぜ非人間的に見えるのだろう」という言葉が示すとおり、その瞬間、学生は患者側にとっての「人間」ではなくなってしまったのだ。

 本書に収められた作品には、いずれも「人間」と「非人間」という対立構造が成立している。そしてここでいう「人間」「非人間」という言葉は、たとえば『死者の奢り』における人間と死体という、比較的わかりやすいものもあるが、むしろ象徴的な意味合いが強いと言える。『飼育』では山奥の隔絶された小さな村に敵国の戦闘機が墜落し、黒人兵士を村で「飼う」ことになるエピソードが書かれているが、ここでは語り手の少年をふくむ村の住人が「人間」であるのに対し、捕えられた黒人兵士は「非人間」であり、また外の世界でつづいてはいるものの、語り手にとっては遠い世界の出来事でしかなかった戦争という要素とともに入り込んできた「闖入者」ということになる。

 僕らは黒人兵をたぐいまれなすばらしい家畜、天才的な動物だと考えるのだった。僕らがいかに黒人兵を愛していたか――(中略)――それらすべての充満と律動を、僕はどう伝えればいい?

(『飼育』より)

 語り手自身もふくめ、本書の登場人物にはほとんど固有名詞がつけられておらず、いずれも「父」「弟」「女子学生」「通訳」といった抽象名詞のみで物語が進んでいく。そして物語の舞台となる世界では、しばしば霧などの要素によって不透明さ、視界の悪さが強調される。だが、そんななか「闖入者」であり「非人間」の要素を与えられた存在に対して、本書では驚くほどの描写力を発揮し、その息遣いや皮膚の動き、そこから発される匂いや汗にいたるまで緻密に再現しようという意思が表面化してくる。それはいわば、語り手にとってあたり前にある自身の世界とは異なる存在、『飼育』でいうなら黒人兵士が、たしかに自身の世界のなかにいる、ということの再認識の儀式だ。

 だが、そうした語り手の儀式は、常に裏切られることを運命づけられている。「闖入者」の異質さはけっしてその異質さを排除されることなく、どころか語り手の世界を脅かすような存在と化す。そしてなんとも皮肉なことに、そうなることで初めて、語り手の閉じた世界が暴力的に外の世界とのつながりを実感させることになる。本書の短編において「闖入者」の役割をはたすのものとして、外国人兵士が多いのも、話し合うことによる意思疎通をはじめから問題としていないことの表れだと言える。言葉ではなく、また肉体的な要素でもなく、話が通じないこと、ディスコミュニケーションの要素という異質さこそが、その存在を何よりも引き立てていく――もし著者がそのなかにこそ真実があるのだと考えていたのだとしたら、それはなんと絶望的なことだろうと思わずにはいられない。

 自身の存在、自分がたしかにこの世界のなかにいるという感覚が、なかなかつかめないという焦燥感、そのヒリヒリするような思いが、本書のなかにはたしかにある。そして、こちらの意思とは無関係に、不意にむきだしの存在となってつながろうとするものの不気味さ――はたして読者は、これらの短編集のなかに、どのようなたしかなものをつかむことになるのだろうか。(2008.04.28)

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