【早川書房】
『観光』

ラッタウット・ラープチャルーンサップ著/古屋美登里訳 



 人がこの世で生きていくというのは、けっして楽なことでも、容易なことでもないのだが、人として生まれてきた以上、せめて人として最低限の尊厳をたもてるような生き方をしたい、というのが、けっきょくのところ私たちが生きていくのに必要なことであり、また望みうる唯一のことではないだろうか、とふと思うことがある。

 もちろん、人間には野望もあれば、欲望もある。良い暮らしをしたい、金持ちになりたい、いい女と一発かましたい、出世したい――欲望は常に人間の好奇心から生まれ、そして好奇心というのは、人を突き動かす原動力だ。だが同時に、行き過ぎた好奇心は周囲の人々や、さらには自分自身さえも傷つけてしまうことになりかねない。誰だって馬鹿にされれば悔しいし、踏みつけられれば痛みを感じる。多くの人々がひとつの場所に集まり、生活していけば、大なり小なりそうした人間どうしの衝突は避けられないことでもある。だが、大切なのはそうなったとき、悔しい、痛いという主張にきちんと耳を傾けることができるかどうか、という点に尽きるという気がする。なぜなら、そうなるためにまず必要なのは、自分が向き合っている者が、自分と同じように感情を有する人間だという認識であるからだ。

 人間としての尊厳は、互いが互いをひとりの個性、まぎれもない人間として認めるところから生まれてくる。今回紹介する本書『観光』は、表題作をふくむ七つの短編を収めた作品集であるが、いずれの短編においても共通するのは、そうした人間の最低限の尊厳をめぐって、人と人とがあるいは衝突し、あるいはつながりあっていくという人間ドラマが展開されていくという点である。

「わたしは死ぬわけじゃない。ただ目が見えなくなるだけ。そのことをよく覚えておいて。大きな違いだから。まったく違うわ。いくら善良な人たちが毎日のように失明したり、死んだりしていようとね」(『観光』より)

 本書の舞台となるのは、いずれもタイのうらぶれた観光地であったり、あるいは小さな村であったりする。そしてそこで生活を営んでいる人たちが、物語の登場人物であり、彼らはいずれも何らかの深刻な問題をかかえている。たとえば表題作である『観光』では、一人息子が職業大学に進学する間際になって、母親の目がもうすぐ見えなくなるという事態に陥ってしまう。『カフェ・ラブリーで』に登場するある兄弟の父親は、仕事中の事故で亡くなっており、母親はいまだにその悲しみから立ち直ることができないでいる。『徴兵の日』では、語り手とその親友であるウィチュは徴兵抽選会に赴かなければならない。抽選の壺から赤い札を引いた者は、二年間の兵役を義務づけられ、家族から離れて暮らさなければならなくなるのだ。

 いずれの作品においても、人間個人の力ではどうにもならないような、理不尽な出来事が登場人物たちを待ちかまえている。しかし、ともすると生きる気力を根こそぎ奪われてしまいそうな不条理を前にして、それでも登場人物たちは、自分たちにできうる精一杯のことを試し、人間としての尊厳をたもとうと必死になって生きていこうとする。『観光』の母親の、商品を値切るときの見事な駆け引きは、そうした人々の力強い生への欲求の象徴ともいうべきワンシーンであるが、そうして値切って手に入れたブランドもののサングラスも、ちょっとしたトラブルでスルリとその手から滑り落ちてしまう。『カフェ・ラブリーで』の弟が、兄とともにいかがわしい酒場へ強引についていったのも、早く自分が大人になって母親を支えていけるようになりたい、という健気な思いから生まれた衝動だ。

 そうした人々のはかない思いは、文章のなかに直接書かれているわけではない。登場人物たちのちょっとしたしぐさや言動の端々から、自然と察することができるようになっている。それゆえに、いずれの短編においても抑制の効いた静謐なイメージがただよい、非常に味わい深い作品に仕上がっている。

 一部例外をのぞいて、彼らはけっして裕福な暮らしをしているわけではなく、また『観光』の母親がいみじくも、タイという国について「能なしとガイジン、犯罪者と観光客の天国」と語るように、貧富の格差がことさら際立っており、それゆえに理不尽な事柄も多い。違う国の人たちとの交流、あるいは混血児といったテーマが多いのも本書の特長のひとつで、『ガイジン』の語り手は、父がアメリカ軍人で母がタイ人というハーフであり、それゆえに自身のアイデンティティの置き場所についてひそかな悩みをかかえているし、『こんなところで死にたくない』の語り手である老アメリカ人は、タイ人の女性と結婚した息子の家族とともに、異国の地で介護を受ける身だ。『プリシラ』の語り手である少年は、カンボジア難民の少女プリシラと出会うことになるし、『闘鶏師』において、語り手の家族を破滅寸前に追い込む直接の要因もまた、フィリピン人の少年闘鶏師である。

 自分たちとあきらかに異なる種族の人間たちへの、タイ人たちの感情は、基本的に良いものではない。たとえ、それがタイという国に多くのお金を置いていってくれる外国人観光客であっても、その気持ちにあまり変化はない。そして自分たちの貧困や待遇の悪さが、その負の感情をさらに増長させる。本書のなかにおいても、貧困と種族の違いが多くの悲劇を生み、登場人物たちはしばしば悲しい思いや憤りを覚えたりすることになるのだが、それでもこれらの短編集に救いがあるとすれば、それは登場人物たちが、少なくとも今は生きている、という点に希望を見出そうというある種の前向きさをもちつづけているからに他ならない。『こんなところで死にたくない』などはその最たるものだ。語り手のアメリカ人は、過去の卒中によって体の半分が麻痺した状態にあり、物語の冒頭において、彼は自分が死んだほうがマシだという考えにとりつかれているが、そんな彼が物語のラストでは、「私はまだ生きておる」という思いへとその心を変化させていく。異人の義娘、自分の身体的特徴の見当たらない孫たち――しかし、彼らもまたまぎれもなく自分と同じ人間であり、家族であるというあたり前の発見が、新鮮な体験としてそこに描かれている。それは『プリシラ』においても、また『闘鶏師』であっても同じである。

 何気ないシーンのひとつひとつが、登場人物たちの心情と深く結びつき、読了後に深い印象を刻む本書の短編は、いずれもきわめて質の高いものばかりである。けっして最良というわけでもない人生のなかで、人と人とのつながりから生まれてくるほんのわずかな希望を、さまざまな形で見せてくれる本書を、ぜひとも味わってもらいたい。(2008.01.25)

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