【早川書房】
『死者との対話』

レジナルド・ヒル著/秋津知子訳 



 刑事というのは、とかく人から嫌われる職業だ。私も過去に一度だけ、刑事の事情聴取というものを受けたことがあるのでわかるのだが、他人の供述に対していっさいの妥協を許さない、ある意味粘着質ともいうべき彼らのしつこさは、もちろん刑事たちが犯罪者を一刻も早く捕らえ、しかるべき法の裁きに服させるという熱意から生まれてくるものであるのは理解できるのだが、それでもなお、すでに曖昧になりかけている過去の記憶――いつ、どこで、誰と、何をしていたのか、ということについて、個人の感情などおかまいなしに、可能な限り正確な情報を引き出そうとする彼らを何時間も相手にしていれば、誰だって正直「もうかんべんしてくれ」という気持ちになるのも無理はない、とつくづく思うはずである。

 まるで、犯罪者を捕まえるというその一点に関しては、自分も相手も人間である、ということさえ忘れてしまっているかのような刑事たちの態度は、ともすれば彼らが人間である以前に「法の番人」という、得体の知れない生き物であるかのような印象さえ受けてしまうのだが、だからこそ、たとえば映画「踊る大捜査線」などで青島俊作や和久平八郎といった刑事たちの、きわめて人間臭い態度をまのあたりにすると、妙にホッとさせられるものがあるのも事実である。そしてそれは、たとえ刑事といえどもやはりひとりの人間なのだということを、あらためて認識させられると同時に、人が人を裁くという、ある意味ではあまりにも過酷な作業にかかわるということに対する厳しさをも思い知らされる、ということにもつながっていくのだ。
 そしてさらに言うなら、刑事たち以上に常軌を逸した、常人には理解できそうもない思考で殺人といった重大犯罪をおかしていく者たちを相手にしていかなければならないのであるから、刑事たちの心が底意地悪い方向にねじまがっていったとしても、それは無理なからぬことなのかもしれない、とさえ思ってしまうのである。刑事という仕事をこなすのは、まったくもって大変なことなのだ、と。

 本書『死者との対話』は、その表題に「ダルジール警視シリーズ」とあるように、中部ヨークシャー警察に勤務するアンディ・ダルジール警視と、その部下たちを中心に、さまざまな犯罪を解決していくというシリーズものの17作目にあたる作品である。シリーズとして17作もつづいているという、それだけの事実をとりあげても、いかにこのシリーズが読者に愛されているかというのがわかるかと思うが、その原動力となっているもののひとつとして、本書に登場する刑事たちの、人間としての魅力があるのは間違いないだろう。

 いかつい巨体で相手を圧倒し、口を開けば下品なジョークと皮肉まじりの毒舌がマシンガンのように飛び出すが、事件の捜査に関してはすぐれた指導力と押しの強さを発揮しつつ、何よりも自分の部下を思いやることを忘れないダルジール警視、そんな警視にさんざん振り回されながらも、まるで長年連れ添った漫才の相方のような、息のあった相性のよさをうかがわせるパスコー警部、どこかマイペースなところのある、ゲイのウィールド刑事といった、ひとくせもふたくせもある刑事たちが織り成すいかにもな人間模様は、刑事という職にある彼らがまぎれもないひとりの人間であることを読者に意識させるものであり、彼らがけっしてミステリーの謎を解くための駒ではないことを強調しているという点で、好感のもてるキャラクターとして確立している。その物語の中で殺人事件などが起こるミステリーというと、どちらかといえばその事件に隠された謎と謎解きのほうに中心がかたよりがちであるが、本書にかんして言うなら、中心となるのはダルジール警視をはじめとする中部ヨークシャー警察の面々だと言える。

 そして本書に関しては、新米刑事ハット・ボウラーがもっぱら動き回る役を買って出ている。しかも彼は、中部ヨークシャー州立図書館に勤めているライ・ポモーナに恋をしているという設定だ。なんとも微笑ましく、ついその恋路を応援してあげたくなってくるのだが、その図書館に届いた、「第一の対話」というタイトルの応募原稿が、恐るべき連続殺人の序曲として機能するにいたり、物語は急転直下の展開を見せることになる。州立図書館と地方新聞社の主催でおこなわれることになった短篇コンクール――その原稿のなかで、主人公は通りがかりの自動車修理工が川に転落して溺死するのをまのあたりにするのだが、それとまったく同じ事件が新聞に報じられており、しかもその応募原稿は、事件が記事として新聞に掲載される以前に書かれたものであることが判明するのだ。

 まるで警察を挑発するかのように届けられる第二、第三の「対話」、そしてそこに書かれた殺人事件が、現実でも同じ殺人事件として実現してしまうという、気味の悪い符合――はたして犯人は誰なのか、何の目的があってこのような連続殺人をおこない、その内容をわざわざ原稿にしておくってよこすのか、タイトルに「対話」とあるが、いったい誰を想定しての対話なのか……。言葉に対して異常な執着を見せる、奇しくも「ワードマン」と名づけられた犯人の犯行の動機が大きな謎として読者の前に提示される、ホワイダニット形式のミステリーであるが、その犯行動機はボウラー刑事が心の中で感じたとおり、一種の言葉遊び、ゲームだという印象を強くするものだ。

 ここに、正体不明の殺人鬼「ワードマン」の、およそ人間とは思えない異常な思考と、中部ヨークシャー警察の面々の、きわめて人間臭いものの考え方がひとつの対となって、それぞれの立場を強調する、という役割をはたすことになる。私たちは本書の最後に明かされる、犯人の意外な正体と、他人にはけっして理解できそうもない、まさに本書タイトルに通じるその動機に驚くと同時に、そんな犯人に翻弄されながらも、それでもなお犯人逮捕に全力をそそぐダルジールたちの、あるいはひとりの女性を振り向かせようと奮闘するボウラーの、あくまでひとりの人間としての行動を追うという、二重の楽しみを味わうことができるのである。その随所にちりばめられた語呂合わせなどの言葉遊び的なものも含め、本書は多くのエンターテイメントの要素を詰め込んだ作品なのだ。

 ごく普通の人間には理解しがたい動機で犯罪をおかす者たちを相手にしている刑事が、ある意味そうした犯罪者と同じように、どこか常軌を逸したモンスター的なものとなったとしても、あるいはまったくおかしくないのでは、とさえ思わせるのが私たちの住む現実というやつだが、虚構の世界ではもちろん、現実の世界でも、あくまで本書の刑事たちのような人間臭さにしがみついていてほしい、と強く願う。それこそが刑事という、とかく人に嫌われる仕事を背負った人間が、ゆいいつ常軌を逸してしまった犯罪者と対抗する手段となるのではないかと思うのである。(2004.05.12)

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