【教学研究社】
『幸せの保証書』

やまもと雄大著 



 何かに対して怒ったり、悲しんだり、悩んだりすることは時間の無駄だと思いこんでいた時期がある。じっさい、私たちがどれだけ怒り、悲しみ、悩み苦しんだとしても、起こってしまった出来事をなかったことにすることはできないし、失われたもの、壊れてしまったものが元に戻るわけでもない。だから、自身のつまらない感情にいつまでもとらわれるくらいなら、その時間をもっと別のことに充てたほうが、より建設的な生き方ができるに違いない、と。
 一面では、その考え方は正しい。人はとりあえず生きていかなければならない。そのときどきの感情に流されてしまっては、私たちは前に向かって進んでいくことができないのだ。だが、それだったらなぜ私たち人間は、感情などというやっかいな代物を有しているのだろう。不必要なものであるなら捨ててしまえばいいのに、それでもなお捨て去ることのできずにいる感情――だが、もし本当に感情を捨ててしまったら、私たちは何かを楽しいと思ったり、何かに喜びを見出したり、誰かをいとおしいと思ったりすることも、同時に捨て去ってしまうことになる。

 自分に嘘をついたり、ごまかしたり、まわりに遠慮したりする必要はない。私たちは理不尽だと思うことに怒り、悲しいときに泣けばいいのだ。それはけっして時間の無駄などではなく、楽しいときに笑い、好きな人をいとおしく思うために必要なことであり、またそれこそが人間のあるべき姿なのである。

 幸福と不幸は一体なのだ
 ひとつなのだ
 ひとつしかないものを天秤にかけることはできない

(「天秤にかける」より)

 本書『幸せの保証書』に載せられている詩について、ひとつの言葉で要約するなら、それは「人間らしさ」ということになるだろう。詩というと、以前私が書評した『吉野弘詩集』における、人間もそれ以外の事物もすべて同じ土俵にのせるかのような感じのものを思い浮かべてしまうのだが、本書の著者が目を向ける先には、いつも人間の姿がある。傲慢不遜で、自分勝手で、そのくせ臆病でこのうえなく愚かな人間の姿が。だが、そんなどうしようもない人間を見つめる著者の視線は、このうえなく優しい。

 たとえば、幸福も不幸も、その人の受け止めかた次第でどうにでも変わるということ、たとえば、人の心の中には天使と悪魔の両方が住みついていること、たとえば、人は自分が思っているほど上等な生き物ではないこと、たとえば、人はひとりでは生きられないこと――著者の詩は、けっして珍しいことを表現しているわけではない。むしろ、人生の中でことあるごとに言及されてきた、人としてごくあたり前のことを詩にしているにすぎない。だが、残念なことにすべての人間がそうした「あたり前のこと」をあたり前のこととして受け入れているわけではないし、また困ったことに、人間というのはしばしばそうした事実を忘れてしまうものでもある。

 人間に生まれてきても
 猿人がホモ サピエンスになるのは生易しいことではない
 人間になろう 人間になろうと思いながら懸命にもがいているうちに
 だんだん人間は人間らしく成る

(「成就」より)

 おそらく、充実した人生を送っている人、今が充分幸せな人にとっては、本書から得られるものはほとんど何もないだろう。だが、それまで絶対だと思っていた価値観が次々と崩壊し、まるで出口のない袋小路に迷い込んでしまったような感のある今の世の中において、何かに不満をもっていたり、将来に漠然とした不安をいだいていたりする人は、けっして少なくないはずである。そんな人たちにとって、本書の詩はきっと何か胸を打つものがあるに違いない。

 キャサリン・ライアン・ハイドの『ペイ・フォワード』という作品は、世界を変えるためにある少年が思いついた計画を主題にした物語であるが、そこに書かれている「計画」は、けっしてすごいことでも、難しいことでもなかった。ただひとつ、自分が助けた相手を信用できるかどうか、それだけが問題だったのだが、人間の幸福などというものは、あんがい単純な事実のなかにこそあるのかもしれない、と思わせるという意味で、本書と共通したものを持っていると言えるだろう。心が張り裂けてしまいそうな悲しみに打ちのめされても、殺してやりたいほど誰かを憎んでも、けっして許されない過ちを犯してしまった自分をどうしても許せずにいても、それでも人はいつかきっと変わるし、また歩き出していける――おそらく、著者は人の弱さも強さもよく知っている方なのだろう。そして、そうした確信をもって書く著者の詩に、人の心は素直に反応するのだ。

 人は誰でも幸せになりたいと思っている。少なくとも、不幸になりたいと思っている人はいないだろう。だが、人としてどのように生きるのが幸せなことなのか、私たちはともすると見失いがちでもある。本書の中には、私たちが生きていくうちに、ともすると見失ってしまう何かが溢れている。(2003.10.11)

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