【東京創元社】
『叫びと祈り』

梓崎優著 



 世界は広い。

 そこにはじつに多種多様な環境が生成され、さまざまな動植物がそこに適応して生きている。そしてそれは、人間にとってもけっして例外ではない。科学技術の発達は、人間に環境そのものを自身に都合がいいように作り変えていく力を与えたが、それでも自然の脅威のすべてを克服できたわけではなく、またそれ以前から綿々と受け継がれてきた、自然環境の影響を大きく受けている文化や伝承といったものは、一朝一夕にその人を変えていくわけでもない。

 私の書く書評のなかには「私たち人間」という言葉がよく使われる。だが、ここで私が「人間」と書くとき、そこには多かれ少なかれ、自分とよく似た環境や社会を共有している「人間」という、ある種の限定が加わっている。言ってみれば、「私たち人間」とは「私たち日本人」という意味合いなのだ。

 世界は広い。だが、その広さをまぎれもない自身の世界として受け入れることは存外に難しい。なぜならそれは、自分とは異なる価値観、異なる文化、異なる言語をもつ者を対等な「人間」として受け入れることが前提としてあるからだ。その困難さは、たとえば契約以外の信頼を失って久しい欧米人や、旧ユーゴスラビアのたどった悲しい経緯など枚挙に暇がないが、本書『叫びと祈り』を読むと、こうした差異がどれほどの高さで人と人との結びつきをさまたげるものとなっているのかを思わずにはいられない。

 ドン・キホーテが白い巨人と信じた風車の、その窓から見える景色。どこまでも続く世界、どこまでも続く色、世界は平面なんだと僕らに信じ込ませる視界。
 白いキャンバスに描かれた一枚の風景画は、圧倒的な力で世界の果てを目の前に見せつけた。

(『白い巨人』より)

 南スペインに建つ風車を、悪の巨人と錯覚したドン・キホーテの逸話を織り込みつつ、他ならぬその巨人の視線という概念で風車の窓から見える外の世界をとらえなおす――五つの短編を収めた連作短編集である本書の、その文章センスの高さは上述の引用からも見てとれるが、この視線の対象の変化によって、見えてくる景色が大きく変わったり、生じた事象の意味合いが変化したりするというダイナミズムこそが、本書を評するうえで重要なキーワードとなる。

 それぞれの短編における舞台は、いずれも遠い異国の地という設定で、斉木という登場人物が取材でその地を訪れることで物語は展開していく。サハラの岩塩を運ぶために砂漠を横断するキャラバン、南ロシアで今も厳格な規律とともに生きる女子修道院、南米アマゾンのジャングルで昔ながらの生活を継承しつづけている先住民族――いずれも私たち読者とは大きく異なる文化圏の人々であり、斉木という登場人物がそうした世界と読者との、唯一と言っていい橋渡し役となるわけだが、ここでひとつはっきりさせておきたいのは、いずれの短編にも登場する斉木は、基本的に物語の主役としての場を与えられているわけではない、という点である。

 むしろ彼の役割は、彼が接することになる異なる文化圏の人々が、自分をふくむ日本人の大半が共有しているはずの常識とはかけ離れた、まさに異文化特有の考え方をもち、それにしたがって物事の優先順位を決定しているという、その差異を強調するための物差しである。これは逆に言うなら、斉木の存在そのものが、その文化圏においては異質な他者ということになる。

 この「異質な他者」という存在は、その文化圏において自分と同じ「人間」の枠外にいる何者かという意味合いを含む場合がある。同じ「人間」でないがゆえに、彼らの言動の根底に何があるのかを理解することができない。斉木が遭遇することになる、いっけんすると奇怪にしか思えない謎は、そうした部分の差異によって生じるものであり、それが本書をミステリーとして成立させているものでもあるのだが、重要なのはその謎を解き明かすことではなく、解き明かすことによってより明晰になる、自身と他者との絶対的な距離感にこそある。

 斉木は語学が堪能で、それゆえに一年の半分程度を海外での取材で費やすという優秀な社員だ。ゆえに、異なる文化の住人と言葉でコミュニケーションをとることはできる。だが、自分の言葉が相手に届かず、また相手の言葉がただの記号としての意味しかわからないという断絶感――じつは、この感覚を読者にも共有させるための仕掛けが、本書のなかには手を変え、品を変えて繰り返されている。そしてそれは、小説を読むときに私たちがなかば無意識のうちに踏襲しているルールへの疑問、という形で私たち読者をゆさぶるのだ。

 私たちが人間だと思いこんでいるものは、本当に人間なのか、私たちが日本人だと思いこんでいる人は、本当に日本人なのか、彼らが話しているのは、本当は何語なのか、あるいは登場人物たちは、どのような位置関係にあるのか――ミステリーの手法としてはけっして珍しいものではないのだが、その手法がそのまま本書のテーマと直結しているという意味で、じつに巧みなものがあると言わざるを得ない。

 ――なあ、どんな人でも、間に最大六人の人間を挟めば知り合いなんだ、分かる? 僕もお前もあそこの綺麗な店員さんも、皆知り合いなんだよ。

(『祈り』より)

 誰もがそんなふうに思っていたら、どれほど素晴らしいことだろう。だが現実は残酷で、そんな思いはたやすく打ち砕かれる。自分と他者とのあいだに横たわる差異の深さ――だが、それでもなお、お互いをつなぐものがあると信じることをやめないと決めたとき、本書のタイトルに含まれる「祈り」という言葉が大きな意味をもつことになる。祈りとは、遠くにあるものを、それでも望まずにはいられないときに行なうものだ。本書のなかで嫌というほど思い知らされる、異質な他者との距離が、少しでも縮まることを、私も祈らずにはいられない。(2012.05.19)

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