【新潮社】
『流れ星が消えないうちに』

橋本紡著 

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 昔――といっても何十年も昔のことではなく、ほんの数年前のことでしかないのだが、私にはずいぶん以前のことのように思えるそんな昔、ある方とちょっとした意見の対立があったのを覚えている。私は、人間はそう簡単には変われない、という意見をもっていた。その方は、人間はその気になればいくらでも変わることができる、という意見をもっていた。そのときは、それぞれの言い分は平行線をたどり、どちらもお互いを納得させるだけの材料を出せずに尻つぼみに終わったのだが、今になってみると、そこには明確な意見の対立があったというわけではなく、たんにお互いの立ち位置が違っていただけで、もしかしたら同じようなことを言おうとしていただけだったのではないか、と思うことがある。

 人間はそう簡単には変われない、という私の意見は、今もさほど変わってはいない。仮に、変ろうと努力したとしても、それがその人にとって自然なことでないかぎり、いつか必ずどこかで綻びが生じることになるし、そんな無理が長続きするはずもない。すでにあるものの形を変えることは、何もないところから新たに何かを作り出すことよりも難しい。もし可能だとすれば、そこに至るまでに多くの時間と労力、あるいは強い意志の力が必要となってくるはずだ。私はそれをもって、「人間はそう簡単には変われない」と答えたが、もしかしたらその方も、同じような考えをもっていて、それでもなお「人間はその気になればいくらでも変わることができる」と宣言したのかもしれない。変わることができるかどうかは、ものの見方の違いに過ぎない――立ち位置の違いというのは、そういうことだ。

「世の中には動かなきゃ見えてこないものがあるんだよ。俺はそういうのをずっと避けてきたんだ。でも、これからはできるだけ動こうと思ってる。たとえ状況自体は変わらなくても、見る目が変わるはずなんだ」

 本書『流れ星が消えないうちに』は、止まってしまったもの、変化しなくなったものが、少しずつ変わっていく、動き出していこうとする、その変化の兆しをとらえようとした作品だと言うことができる。止まってしまったものは、ふたりの青年の心――本山奈緒子と川嶋巧のふたりの時間である。そして、その原因となっているのは、ふたりに共通の知り合いである加地の死だ。

 本山奈緒子は、加地の恋人で、また幼馴染でもあった女性であり、川嶋巧は、加地の無二の親友。典型的な体育会系の巧と、比較的おとなしめな感じのする加地とは、まるで正反対な性格をしていたが、高校の文化祭の準備で知り合って以来、巧とって加地は一目を置くような存在となっていた。章ごとに奈緒子と巧のあいだで主体が入れ替わりながら進んでいく本書のなかで、当然のことながらその中心にいるのは、物語がはじまった時点でこの世にはいない加地であり、それゆえに、彼がこの物語において果たすことになる役割はとても大きい。

 変化しなくなったものとして、「奈緒子と巧の心」を先に挙げたが、まったく何も変化していないというわけではない。加地が外国の小さな島で、バスの転落事故に巻き込まれて死んでしまってから一年半、奈緒子と巧は恋人として付き合うようになっていた。だが、それは死んでしまった加地をあいだに挟んでの交際であって、そのことにふたりとも気がついている。そして、気がついているがゆえに、ふたりの恋人としての間柄もまた、変化を止めたような状態になっているといっていい。本書のなかで、そうしたふたりをめぐる事情は、当初ははっきりと文章として書かれているわけではない。たとえば、家族がみんな単身赴任で佐賀に越していって、今は奈緒子ひとりで住んでいる家の中で、玄関という特殊な場所でなければ寝られなくなっている、たとえば、ボクシングジムに通っている巧が自分に才能がないとわかったときに、加地ならこんなときどうするか、と考えずにはいられなくなっている――そうしたふたりの言動から、自然と読者に伝わるような構成となっている。

 繰り返しになるが、本書は「変化の兆し」を表現する小説だ。まるで、いつのまにか季節が移り変わっていく、その変化の兆しをとらえていくかのようなこの物語は、それゆえに、何か劇的な変化が訪れるわけではない。最初の「変化の兆し」は、奈緒子の父親の家出、という形をとって現れる。家出と言っても、奈緒子の側からすれば、父親が突然家にやってきた、ということになるのだが、それまで純粋に奈緒子と加地だけの場所であった家に、父親というある種の「闖入者」がやってくることで、物語は少しずつ動きを見せることになる。

「俺、おまえのお父さん、好きだぞ。いいオジサンだよな。含むところがないしさ。俺の髪や顔を見ても嫌な顔しなかっただけで、たいしたものだよ。あのお父さんなら、どうにかするさ。それに、たとえ駄目だったとしても、家族が全部壊れるわけじゃないんだし」

 本書を読んでいくとわかってくるのだが、死んでしまった加地のことが語られるのは、当初は奈緒子と巧の思い出のなかだけである。とくに、加地が奈緒子への思いを伝えるのにも利用した、文化祭の出し物であるプラネタリウムのシーンは、青春小説のなかでもこのうえなく美しいものとして書かれており、それゆえに読者への印象という点でも際立ったものがあるのだが、その一方で、現実に加地を思い出させる物品にかんしては、ふたりとも注意深く遠ざけようとしているし、ふたりのあいだに加地のことが話題にのぼることも避けているところがある。加地の死は現実に起こってしまったことであり、受け入れるしかないことでもある。だが、そんな理屈をそのまま受け入れることができるほど、ふたりは老成しているわけではない。しかし、それぞれが加地のことでわだかまりをもち、それゆえに動けずにいたなかに、家出してきた父親が入り込み、巧の口を通して伝わった加地の言葉が、彼を動かし、それが起爆剤のような役割となって、菜緒子や巧に影響を与え、ふたりもまた動き出そうとする。そのちょっとした動きの連動が、変化の兆しとして描かれているのが、本書の大きな特長である。

 失われてしまった大切なもの、忘れることができない過去の思い出――たとえ、それがどんなにつらいことであったとしても、命がある以上、それらをかかえて生きていくしかない。だが、それはけっして絶望的なことではないし、悪いことばかりでもない。おそらく、考え方の違い、立ち位置の違いなのだ。私は今もなお煩悩にまみれた成長しない人間でしかないが、それでもこの年まで生きて、そうした立ち位置の違いがなんとなくわかるようになっていた。人生は常に順風満帆というわけにはいかないが、そうした悲しみや苦しみを乗り越えて長生きしていく、というのは、案外素敵なことなのかもしれない、そんなふうに思わせるものが、本書のなかにはたしかにある。(2008.09.16)

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