【講談社】
『深紅』

野沢尚著 



 以前読んだ森達也の『死刑』のなかに、死刑制度に対する興味深いイメージがある。それは、加害者たる犯人を崖から突き落とすというイメージである。ただし、その犯罪の被害者は崖の上にいるのではなく、崖の底にいる。加害者によって崖から突き落とされ、深く傷つき苦しんでいる被害者やその関係者に対して、死刑制度は加害者を同じように、しかし法の名のもとに崖から突き落とすことで満足しろ、と崖の底にいる被害者に向かって叫んでいるのだ。このイメージの秀逸なところは、死刑判決がくだされるほどの重大な犯罪行為は、その加害者はもちろん、被害者たちもそれまでの日常から乖離した場所へ遠ざけられ、他の人たちの視界から消されてしまうことを端的に示している点である。そして、一度その場所に遠ざけられた者たちは、よほどのことがなければ元いた場所に戻ることは叶わない。それはまさに、深い崖の底から自力で這い上がるに等しい行為と言える。

 犯罪に巻き込まれた被害者は、本当にそんなこと――加害者を自分たちと同じ場所に引きずり込むことを望んでいるのか。彼らにもっとも必要なのは、彼らが元いた「崖の上」の世界に連れ戻すための手助けではないか、という趣旨がそこにはあったのだが、それがけっして容易な道でないことも想像に難くない。とくに殺人事件の場合、被害者にとっての「崖の上」とは、被害者が生きている世界のことであり、いっぽうで失われた命はけっして元には戻らないからだ。

 彼らにとっての日常は、犯罪行為をきっかけに決定的に変わってしまっている。そしてここでいうところの「彼ら」とは、犯罪の被害者だけでなく、加害者も、そしてその家族をも含まれている。今回紹介する本書『深紅』の中心となっているのは、ある陰惨な殺人事件であるが、物語をつづっていくのはその直接的な関係者ではなく、その親族であるがゆえに否応なく死者とともに「崖の底」に突き落とされてしまった、ふたりの女性である。

 言葉は、これまでも数々の残酷な本心を溜めこんできた場所に封印した。奏子は最近になって、「隠れ家」と命名した。――(中略)――本心を明かせば、周りの世界がギスギスして尚更自分が生きにくくなることが分かっている。
 堅牢な隠れ家を持ち続けることは、自分にとっては唯一無二の処世術なのだ。

 本書に登場する秋葉奏子は、現在永和学院大学に通いつつジャーナリストを目指す二十歳の女性であるが、彼女は八年前に起こった殺人事件によって、両親と弟ふたりを一度に失うという悲劇を経験している。当時メディアを大きく騒がせることになった、一家惨殺事件――阿佐谷にあった彼女の家に侵入したひとりの犯人によって、家族が次々とハンマーで撲殺されたまさにそのとき、奏子はたまたま小学校の修学旅行で家を空けていたがゆえに、その惨事を免れることができた。全部で五章からなる本書のうち、最初の第一章は、当時小学六年生だった彼女が、事件の連絡を受けた担任教師に深夜に呼び出され、事情もよくわからないままタクシーに乗せられて、旅行先から病院に向かっていたときの様子が克明に描かれているのだが、数少ない情報から、自分の家族に取り返しのつかない何かが起こったことを、幼いながらにも悟り、そして病院でじっさいに遺体となった家族の姿を確認するまでの四時間は、いっけん冗長のようでありながら、じつは本書を語るうえで欠かすことのできない重要なシーンであることが、読み進めていくことで明らかになっていく。

 続く第二章は、その一家惨殺事件の加害者として起訴された都筑則夫の上申書の内容と、彼に下された判決文によって構成されている。第一章とはうって変わって、書かれた記録の内容というきわめて事務的な印象の強い章ではあるが、ここで重要なのは、殺された秋葉由紀彦がけっして清廉潔白な人物なわけではなく、むしろ都筑則夫を詐欺同然にだまして大金を奪い取ったという事実と、その事実に対する裁判官側の、ある種の偏見に満ちたものの見方が強調されているという点だ。そして今回の一家殺害事件が、たんに通りすがりの犯行などではなく、殺された側にもそれなりの理由――都筑則夫に深く恨まれるだけの理由があったからこそのものだと知らされることで、読者は事件の加害者と被害者の、どちらに肩入れするべきなのかに迷わされることになる。

 こうした長い前振りのはてに、第三章以降の、二十歳となった秋葉奏子の現在がある。そしてある意味で当然のことながら、一家殺害事件の影響はいまもなお彼女の生活に重い影を落としている。一時期受けていた心理カウンセラーによる療法などでは、到底癒すことのできない深い傷――だが、現在の日本の法曹界がけっして犯罪被害者のために機能しない以上、彼女にできるのは都筑則夫の死刑判決に満足することくらいであることも知っている。しかしながらあるフリーライターの、一家殺害事件にかんするルポタージュの情報が、以後の奏子を支配する、妄執に近い行動の起爆剤となる。それが、都筑則夫のひとり娘である都筑未歩の存在だ。

 私と似ている。あまりに似ている。
 被害者と加害者。それぞれが残してきた子供が、似たような袋小路でうずくまっている。殺された側と殺した側が、実は同じ苦しみでつながっているのだとしたら……。
 会ってみたい、と奏子は思う。

 はたして被害者の遺族が死刑囚の娘に会ってどうするのか、そしてこのふたりが会うことでどのような化学反応が生じてしまうのか、というのが本書最大の読みどころと言えるが、奏子が一家殺害事件に対するさまざまな激情や鬱屈した思いを、表面上の平穏な生活のために溜め込んでいることは、本書を読み進めていけばすぐに気づくことである。そこにはしばしば加虐的なもの、あるいは破滅的なものさえ入り混じっていて、そのあたりの心情についてはとうてい簡単には表現しきれないものがあるし、奏子自身もその気持ちを理解しきれていないところがある。だが、少なくともその心情が、およそ平穏な生活からは程遠い、ドロドロしたものであることだけは理解できる。

 まるで、崖のあいだに渡されたロープの上を綱渡りするかのような危うい心理のまま、それでも都筑未歩のすべてを知りたいという思いを抑えきれずに、正体を隠して接近する奏子――そこには、壮絶な体験によってそれまでの日常から切り離されてしまった者たちの、声にならない慟哭がたしかに響いている。そして、どう考えても良い結果を残すとは思われないふたりの邂逅は、否応なく読者を惹きつけずにはいられない。まったくの正反対の立場であり、けっして相容れない関係でありながらも、間違いなく似たもの同士であるふたりのあいだで、はたしてどのような物語が進んでいくことになるのか、そしてその結末がどのような形であるのかは、余計な知識なしでぜひそれぞれが本書を読んでたしかめてもらいたいところである。そこにははもしかしたら、今の死刑制度では掬い取ることのできない真の救い――それこそ「崖の底」に落ちてしまった人たちを、ふたたび「崖の上」へと連れ戻すためのヒントとなるものがあるかもしれないのだ。(2013.11.21)

ホームへ