【朝日新聞社】
『神樹』

チョン・イー著/藤井省三訳 



 中国の有名な故事のひとつに「邯鄲の夢」というものがある。ある貧乏な青年が、とある宿屋で出会った道士の枕で一眠りしたところ、その後の自分の全生涯――美人の妻を娶り、高い地位と名誉と財産を得て、さまざまな紆余曲折があったものの幸福な人生をおくり、大往生をとげるまでの長い長い夢をみたのだが、ふとその青年が目をさますと、宿屋の主人がはじめた煮炊きすら終わっていない、ほんのつかのまの時間でしかなかった、というものである。人の世の栄枯盛衰のはかなさを説いたこの故事は、同じく中国の故事である「胡蝶の夢」とともに、私にとってはとくに印象に残っているものであるが、それはこのふたつの故事が、夢と現実、あるいは時間と空間といった現世のさだめる境界をやすやすと飛び越えていくだけのダイナミズムをもっており、その部分に個人的なシンパシーを感じてやまないものがあるからだろう。そして、人の一生をほんのつかのまの夢と等価で結びつけてしまうその境地は、いかにも悠久の歴史のなかでさまざまな王朝が誕生しては滅んでいった中国という風土が生み出してしかるべきだ、というイメージをもっている。

 だが、およそどのような時代のどのような国においても、そこに人がいて、生活があり、それぞれがその日その日を懸命に生きてきた、という事実だけは変わることはない。そして生活の営みがあれば、そこから人と人との交わりが生じ、その結果としていくつもの喜びや悲しみが起こる。たとえ「邯鄲の夢」の故事の発祥の地である中国であっても、誰もが「人生は夢のごとし」などと達観できるわけではなく、現世の欲望は常に払いがたく、抑圧されれば利害や理性など関係なしに暴走してしまうこともある。それは、いかにも愚かでちっぽけなもののように思えるし、じっさいにそのとおりなのだが、おそらくそうした愚かなところもすべてひっくるめて、私たちは人間なのだ。

 神樹とは歴史の証人といえよう。そればかりでなく、歴史に参与していたのである。神樹は我ら人民の生命の歌と死の嘆きとに耳を傾けてきただけでなく、歴史の風雪はその堅牢たる身体に数々の傷跡を残している。いわゆる奇蹟とは今日でもなお解明できぬ自然現象と理解できようが、もとよりこれにより視界が開かれ、三千大世界の神秘を覗くこともできるのだ。

 本書『神樹』のタイトルにもなっている「神樹」とは、中国山西省の山村「神樹村」にある、樹齢数千年にもおよぶ巨大な常緑樹のこと。村ができるはるか以前からその地に根を生やし、村の象徴となって以後も常に村の歴史を静かに見守りつづけた、さまざまないわれをもつ神秘の巨木のことである。ある日、山にこもって植林をしていた老人の石建富が神樹開花の声を聞き、それまで一度も花を咲かせたことのない神樹が白い花を満開にしているのに気づく。村はじまって以来の異変に村の人々はおおいに沸き立つが、天にも届かんばかりの高さを誇り、かつて神樹村に侵攻してきた日本軍さえも寄せつけなかった神樹の開花は、同時に、かつてその村で死んだ人々を次々とよみがえらせるという奇蹟を引き起こしていた……。

 死者のよみがえりなどと書くと、あるいはホラーめいたものを想像する方もいらっしゃるかもしれないが、本書に登場する死者たちは、生前の記憶をすべて覚えており、昼間は出てこられない以外は普通の生きた人たちと同じように会話をしたり、食事や、あまつさえ酒を飲んだりさえするような存在として書かれている。そしてよみがえった死者たちが担うおもな役割は、神樹村の過去を語ることにある。ときにはただ過去を語るだけでなく、神樹の葉を一枚燃やすことで、まるで録画映像のように過去の村の記憶を目の前に再現させるという方法をとったりもする。そういう意味では、本書に出てくる死者たちは、霊魂や亡霊といった怪奇現象というよりは、むしろ神樹自身の記憶の再現されたもの、ととらえたほうがいいのかもしれない。

 ただし、その奇蹟のただなかにある村の人たちにとっては、それが亡霊だろうと、あるいは神樹の記憶だろうとさしたる問題ではなく、むしろ死者たちのよみがえりによって語られる神樹村の過去のほうが、より深刻な問題と化していた。というのは、その村の過去はけっして平坦なものではなく、さまざまな悲劇と多くの血なまぐさい出来事に彩られた、できればもう二度と思い出したくもない血の歴史ともいうべきものであったからだ。

 土地改革という名の下におこなわれた地主たちの虐殺、国家規模の「大躍進」政策がもたらした極端な搾取と、それが引き起こした極度の貧困によって続出した餓死者、それまで村の権力を握っていた人物があっというまに「右派分子」のレッテルを貼られてしまう「文化大革命」時代――ある者は新興宗教弾圧に巻き込まれて国に殺害され、ある者は幻の金塊を求めて何年も墓盗掘をつづけたあげくに発狂し、ある者は権力をかさに着て人の女房を次々と食い物にしていった暗黒の過去が、次々と目の前で再現されていく様子は、本書最大の読みどころのひとつである。そして本書を読み進めていくと、そこには村の三大氏族である石一族、趙一族、そして李一族の絶え間ない権力闘争があったことが垣間見えてくるのだが、ここで重要なのは、神樹の開花によってあきらかにされていく村の過去が、けっして誰かを悪人にしたて、過去の罪を糾弾するようなたぐいのものではない、ということである。むしろあきらかになってくるのは、貧農出身の石一族、地主の趙一族、代々大工だった李一族は、加害者であると同時に被害者でもあり、誰もが当時の強硬な時代の流れに押し流されるように生きていくしかなかった、ということであり、それでもなお、人々はさまざまな欲をもち、それを満たそうとしぶとく生き抜いてみせた、ということでもあるのだ。

 中華人民共和国となった中国のなかで、どのようなことが行なわれてきたのか、その真実をつづった本としては、ユン・チアンの『ワイルド・スワン』が有名であるが、本書にもまた、日本では考えられないような恐慌状態の中で無慈悲に死んでいった人々を、ただの事件のひとつとして片づけてしまうのではなく、彼らもまたたしかにひとりの人間であり、私たちと同じように生きて生活をしていたのだ、という事実を復権させようという願いが込められているのは間違いない。そうしたテーマは、後に神樹を伐採しようと軍隊を送り込んでくる共産党政府と、それを守るためによみがえったかつての八路軍の死者たちという対立構造のなかにも息づいている。そして同時に、本書はどんなに過酷な状況下にあっても、けっしてへこたれずにしたたかな生き方をしていく人民たちの姿にも触れている。神樹開花のご利益を聞き及んだ参拝客を相手にちゃっかり商売に着手したり、大洪水のあとに上流から流されてきたさまざまな「水荷」を貪欲にさらっていったりする様子などは、その典型的な例だろう。

 ひとつの小さな村の、小さな栄枯盛衰のすべてをただ静かに見守ってきた神樹は、はたして最後に何を村にもたらし、あるいは奪っていくことになるのか――そのあたりの結末についてはぜひ本書を読んでたしかめてほしいところであるが、最後にひとつだけエピソードを添えておくと、この書評で紹介した「邯鄲の夢」の故事、その邯鄲とは中国河北省南部に実在する都であるが、そこでは夢をみた青年盧生の石像があり、今も参拝客が引きも切らない人気を誇っているという。たとえ夢でもいいから、盧生が極めた栄華にあやかりたいと願う中国人にとって、いま自分が生きる世が現実か夢かといった違いは、あるいはそれほど重要なことではない、ということなのかもしれない。(2005.06.06)

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