【東京創元社】
『魔術師の夜』

キャロル・オコンネル著/務台夏子訳 



 警察の仕事というのはあくまで国家を守ることであって、市民の安全を守るというのはサービスの一環でしかない、といった趣旨のことを言ったのは、『彼女はたぶん魔法を使う』に登場する柚木草平であるが、罪を犯した人を捕らえ、しかるべき法の裁きにかけるというのが彼らの職務であるとすれば、草平のこの言葉はこのうえない真実を物語っていると言うことができる。そこにあるのは、本来であればいっさいの私情を差し挟む余地のない、きわめてシステマティックな行動原理であるし、またそれゆえに、警察組織というのは上下関係にことのほか厳しく、また数々の制約によって縛られてもいる。加害者の情状酌量を考えるのは弁護士や裁判官の仕事であって、警察は犯罪者を捕らえるのがすべてだ。だが、もし本当にそれがすべてであるのなら、警察の仕事をおこなうのは機械であってもかまわない、という極論に行き着くことにもなる。

 警察が正義の味方であると信じるほど私は無邪気な年頃ではないし、警察といってもけっきょくは私たちと同じ人間にすぎないのだから、すべてにおいて完璧を求めるつもりもないのだが、それならばせめて、自身の職務に対して忠実であってほしいし、また誠意をもってほしいと思ってしまうのは、私だけではないはずだ。だが、きわめてシステマティックな組織の一員として任務に忠実であることが、必ずしも警察の本来の職務をまっとうすることにつながるわけではない、という悲しい現実がある。それゆえに、集団としての意思統一と、あくまで個人が個人であるがゆえに持たずにはいられない感情とのせめぎあいや葛藤というのは、警察小説においては格好の人間ドラマを生み出す要素となるのだ。

「もっと理解があるかと思ってたよ、マロリー。あんたの仕事は正義を行うことだろうに」
「いいえ、それはわたしの仕事じゃない。私はただの警官よ。
――(中略)――正義を行うのなんて簡単。わたしの仕事はそれよりはるかにむずかしいの」

 稀代のマジシャン、マックス・キャンドルの「失われたイリュージョン」――すでに故人となった本人以外、誰もその筋書きを知らないがゆえに幻となってしまった伝説のマジックを再現しようと試みた老マジシャンが、その本番中、テレビカメラと大勢の観客の前でクロスボウの矢に射抜かれて死亡する。そんな、ショッキングではあるが魅惑に満ちた事件が起こる本書『魔術師の夜』であるが、本書を読み進めてわかってくるのは、そうした舞台設定以上に本書を引き立てているのは、他ならぬ本書の主役であるニューヨーク市警の巡査部長キャリー・マロリーの、そのストイックで型破りな存在そのものだという点である。

 ある意味典型的な男性社会である警察組織の逆境のなかにあって、ひとりの女性刑事が男たちに負けずとも劣らない活躍を見せる作品は、たとえば乃南アサの『凍える牙』や、リンダ・ラ・プラントの『第一容疑者』をはじめとしていくつも存在するが、それらの作品の中にあって、本書の主役であるキャリー・マロリーは群を抜いてクールなキャラであり、かつ狡猾でずる賢い一面をも見せる。<機械人間>の異名をもち、また極度に潔癖症なところのある彼女は、ときには同じ警官だった養父の仕草を巧みに真似てみせることで同僚たちの心をつかみ、またあるときは容疑者の口を割らせるためにいくつもの嘘を口にしながら、あくまでポーカーフェイスを貫き通してみせる。どんな境遇においてもけっして油断することのない、まるで野生の獣のように怜悧な一面と、無造作にゴツいマグナムをぶっ放す激しやすい一面――それは、本書のなかでは多くは語られていないが、かつてスリの常習犯だったストリートキッズ時代に、その身をもって培った経験のなせる業であり、その性質は今もなおまったく変わっていない。女性であるとか、男性であるとかいった境地をマロリーは軽く飛び越えて、警察組織のなかにおいてもあくまで彼女らしく、強くしたたかに生きている。

 警察の同僚の誰もが事故死であると疑わなかったマジシャンの死に対するマロリーの執着ぶりは、彼女自身の事件を嗅ぎわける勘、という言葉で片づけてしまうには、あまりにもその執着の度合いが大きすぎるものがある。しかも、本書冒頭において、殺人を匂わせる要素がほとんど何もないという状況であるにもかかわらず、まるで盲目であるかのようにその事件性を確信している彼女の態度は、異様ともいうべきものだ。私が本書を読んでいてまず感じたのは、そうした彼女の、たとえ周囲すべてを敵に回してでも自身の直観と信念を曲げようとしない、ある種狂的な執念であったのだが、その根幹にあるのが人間全般に対する根深い不信感――人が善であるよりは、むしろ悪であるという暗黒面の信仰にあるとすれば、すべては納得のいくものとなる。とくに、人の善意を信じるという意味ではまさにマロリーとは対極に位置する友人のチャールズ・バトラーの、まるで子どものように無邪気な性質は、マロリーの人間に対してけっして払拭されない不信と悪意をよりいっそう際立たせるのには、まさにうってつけのキャラクター設定だと言える。

 警察という組織のなかにありながら、けっしてその集団に染まることなく、また彼らの力に頼りきりになることもなく、ただひたすら犯罪者の逮捕という警察本来の職務を遂行することに血道をあげるマロリーの、その孤高なまでのモチベーションの高さは、彼女をともすると犯罪ギリギリの行為へと導いていく。警察でありながら、同時に犯罪者としての境界の、その危うい一線を綱渡りのように突き進んでいくマロリーの狂気は、どのようにして彼女のなかに根づき、そして彼女をどこへ連れていこうとするのか――「失われたイリュージョン」の全体像や、老マジシャンたちの、第二次世界大戦時代の秘められた過去といった部分もミステリーの要素として充分気になるところではあるのだが、私が何より興味を覚えたのは、まさにその一点であり、そんなふうに考えたときに、本書のなかでマロリーが何度も対峙することになるマラカイの狂気が、このうえなく大きな意味をもって私たちの前に立ち表われてくることになる。

 そこには誰もいないにもかかわらず、ふと気がつくと火のついた煙草が灰皿に乗っていて、フィルターには口紅までついている。テーブルに置かれたグラスはいつのまにかその中身が減っており、あまつさえマラカイの隣でポーカーを楽しむことさえしてしまう、死んだはずのルイーザ――むろん、それは亡き妻の幻にとりつかれたマラカイのマジックによる演出にすぎないのだが、マジックショーであればともかく、私生活の面でもそうした演出をけっしてやめようとしないマラカイの狂気は、そのまま第二次世界大戦中、ナチス占領下のフランスにおける大きな心の闇へと直結するものでもある。言ってみれば、マラカイの狂気は戦争の狂気、そして大量虐殺の狂気の象徴として、マロリーの狂気と対になるものでもある。このルイーザの死の真相は、マジックショーにおける殺人事件と深いかかわりをもつものであり、その全容についてはぜひとも本書を読んでたしかめてほしいところであるのだが、ひとつだけたしかに言えることがあるとすれば、マロリーとマラカイ、その性質こそ違え、ふたりの狂気は人間のかかえる心の弱さという一点において、共感すべき部分があった、ということである。

「だがね、マロリー、誰もが怪物になれるわけじゃない。さっきも言ったとおり、あなたにはその素質がないんだよ」

 正義を行うのは簡単だとうそぶいたマロリーの言葉は、正義や悪といった概念が、しばしば相対的なものでしかないということへの彼女なりの皮肉だと言うことができる。その行動を正義ととるか、あるいは悪ととるか――それはけっきょのところ、その結果によって法や歴史家といったものの手にゆだねるしかない、じつに心許ないものでもある。はたして、今回の事件の真相は、マロリーの怜悧な心にどのような作用をもたらすことになったのか、おおいに考えさせられる作品であることは断言できる。(2007.07.11)

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