【新潮社】
『世界の果ての庭』
−ショート・ストーリーズ−

西崎憲著 
第14回日本ファンタジーノベル大賞受賞作 



 物語というのは、言ってみればつくりもの、あくまで虚構の世界の話であり、私たちが生きて日々の生活をおくっている現実世界とは決定的に異なる代物である。だが、虚構と現実のあいだにまったく何の関連性もないのか、と問われれば、けっしてそんなことはないと答えねばなるまい。どんなに荒唐無稽な物語であっても、そのつくり手が私たちと同じ人間――この現実世界に生きた、あるいは今生きている人間である以上、虚構を構成する要素のひとつひとつはあくまで現実と結びついており、そこから生まれてくる物語は、ときにそれを読んだ人間を通じて、現実世界に大きな影響をおよぼすこともある。そういう意味では、物語というのはもうひとつの現実、私たちの生きる世界の、別の側面を映し出したものだと言えるのかもしれない。

 物語にはかならず「始まり」と「終わり」がある。そして、「始まり」も「終わり」もかならずひとつずつしか存在しない。かりに、複数の「始まり」があるように見えていても、底辺の部分ではかならず同じ虚構の世界の価値観を共有している。そして、その間の道のりはたいてい一直線であり、あくまでひとつの作品内の出来事である、という共通点を持つ以上、後にひとつの流れとして統合されることはあっても、けっして枝分かれするようなことはない。本書『世界の果ての庭』は、そうした物語における約束事を打ち破った作品だと言うことができるだろう。それは、ひと言で説明するなら「枝分かれする物語」である。

 まず、すべてのはじまりとなるひとつの物語がある。独身女性作家である「わたし」ことリコと、日本の近世文学研究者であるアメリカ人のスマイスの物語――それは、一面ではちょっとしたラブストーリーであり、一面ではちょっとしたミステリでもあるのだが、この物語の中に出てきたある要素を受けとって、次の章ではまったく別の物語がはじまるのだ。それはあるいは、リコの大学院生時代に体験したイギリス行きの話のように、元の物語と密接に結びついているものから、江戸時代の伝承話のように、元の物語からはほとんど独立した状態にあるものまでさまざまであるが、ひとつの物語の流れからいくつもの別の物語の流れが、まるで枝分かれするかのように発生し、しかも一度分岐した物語は、けっして元の物語と合流することがない、という点が、これまでの作品にはなかった大きな特長のひとつである。

 全部で55の章で構成されている本書であるが、単純に1から順に読んでいくと、読者は本書の中で展開するいくつもの物語を行ったり来たりしながら、結果的に複数の物語を同時に読みすすめていくことになる。もし、ひとつの物語の流れだけを追いたい場合、たとえば1章の次に3章、5章、10章というように、章をまたいで読むことを強制されるのだが、とくに斬新さや目新しさのない個々の物語の流れだけを追う、という読み方は、おそらく著者の本意ではないだろう。なぜなら、本書における複数の物語の同時進行という設定は、ひとつの物語が同じ水平線上にある「始まり」から「終わり」へと、一直線に進んでいくもの、というこれまでの物語の見方に、あらたに垂直方向の見方を加えることで、物語の背景となる「虚構」という名のファンタジー世界に、いわば立体的な奥行きを持たせようという、ひとつの試みであるからだ。

 それまで水平的な物語の流れしかなかったところに、垂直的な物語が加わったとき、物語は平面的な世界から立体的な世界へと変化する。そして立体的な世界が構築されることによって必然的に生じてくるものは、その場からは見えない部分――つまり影である。

 わたしが造りたい庭は光という影と、影という光で造った庭だ。

 大学院生時代のリコは、「理想の庭」という章のなかでそんなふうに述べている。この物語のなかで語られる庭園に関する考察は、ある意味で本書が築こうとしている虚構世界を象徴していると言える。自分の身長より高い櫟の生垣に囲まれた園路のなかに立っているとき、視界にあるのはただ櫟の濃い緑だけであり、その先の突き当たりを左に曲がったところにある薔薇とクレマティスの壁面園は見えない。その薔薇は、移動することによってはじめて見えてくるものである。そして、薔薇の明るい赤が目に飛び込んできた瞬間、それまで光だった櫟の濃い緑は、薔薇の赤との対照によって光から影へと転じ、それまで影だった薔薇の赤は、それを見る人間のなかで光へと変換される。

 本書を読みすすめるとき、読者はいつもと同じように前から順番に物語を読んでいくが、それがひとつの物語を一直線に追うのではなく、複数の物語に同時に目を向ける垂直的な移動をともなわせることになるのは、前述したとおりである。そのとき、読者が読んでいる章の物語は光となるいっぽう、別の章の物語は読者の視界から隠された影となる。リコの祖父が迷い込むことになった奇妙な異世界で、どこからともなく現われてその人間を食ってしまう「影」、あるいは、渋谷緑童という明治の作家が書いた「人斬り」のなかで、十左右衛門の乱心の原因になったと思われる「影」の存在――もし、その「影」が、ある物語が「光」となったために生じた、別の物語の「影」であるとするなら、彼らが人間を追い回す理由もなんとなく見えてくる。「影」は、視点の移動によって自分が「光」にもなりえることを知っている。そのためには、とにかく人間に移動してもらわなければならないのだ。

 庭は「移動」を内包している。もし人間が庭を眺めている時、静止したままだったら、どうなるだろう。
 当然、眼に映る像に変化は生じない。その映像は立体的ではあるが、絵画とあまり違わないものになるだろう。
 つまり、視点の移動による映像の変化というものを庭から取り除いたら、その瞬間に庭は死ぬのだ。

 本書のタイトルは、日本ファンタジーノベル大賞を受賞したときは「ショート・ストーリーズ」というタイトルだったようだが、単行本化したときに改題された『世界の果ての庭』のほうが、この物語の本質を突いていると言える。庭園が「移動」という要素によってまったく異なる世界を垣間見せてくれるように、私たちの生きるこの現実世界も、もしかしたら、より大きな視点によって垂直的な流れにさらされる物語のひとつでしかないのかもしれない――そんな考えを、荒唐無稽なものとして一笑するかどうかは、おそらく読者しだいだろう。(2003.05.30)

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