【講談社】
『占星術殺人事件』

島田荘司著 

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 以前、綾辻行人の『時計館の殺人』を読んだとき、私はこの「館」シリーズと呼ばれる一連の作品が持つ雰囲気をサーカスに例えたことがあるが、ミステリーというジャンル、とくにトリックや謎にいかに趣向を凝らすか、ということに重点を置く本格ミステリーには、多かれ少なかれこうしたサーカス的な要素があるものだと私は思っている。そこにはもちろん、読者を楽しませるというエンターテイメントの要素が存在するわけだが、読者をミステリーの世界に没入させ、心ゆくまでトリックとその謎解きを味わってもらうためには、トリックだけでは不充分だ。仕掛けられたトリックの効果を最大限に引き出すには、それなりの演出も必要となってくる、ということである。

 サーカスというのは、大テントという非日常空間のなかで行なわれるのがほとんどだ。もちろん、パフォーマンスを行なう人たちの卓越した技量があってこそのサーカスであることは間違いのない事実だが、そのパフォーマンスの舞台である大テントという閉鎖空間が、観客たちの心理に大きな影響をおよぼしていることも考慮しなければならない。極端なことを言えば、同じパフォーマンスを大テントのなかでおこなうのと、真昼の路上で行なうのとでは、観客が受ける印象はかなり異なってくる、ということだ。

 誰も出入りすることのできない部屋でおこった密室殺人、犯人を突きとめる大きな手がかりである暗号文、大掛かりなからくり、そして魅惑的な怪盗と名探偵の存在――江戸川乱歩や横溝正史といった作家たちが築いた、古き良き本格ミステリーに光をあて、いわゆる「新本格派」の草分け的な存在として、島田荘司の名前を欠かすことはできない。そして、そんな著者のデビュー作である本書『占星術殺人事件』は、そのトリックの奇想天外さはもちろんのこと、そのトリックを際立たせる演出方法という点においても、まさに「新本格派」のトップを飾るにふさわしい作品だと言えよう。

 ある画家が書き残した、膨大な遺書――そこに書かれていたのは、自分の6人の娘から、西洋占星術によって割り出した、祝福を受けた部位だけを切り離し、それらを錬金術の秘術を用いてひとつにつなぎあわせ、完璧な美を持つ女性「アゾート」を誕生させるという、妄想じみた計画だった。書き手である梅沢平吉は、この遺書をしたためた5日後に、何者かの手によって殺害されている。だが、それから1ヶ月後、彼の6人の娘がそろって行方不明になったあげく、体の各部位が欠損した遺体として、全国から次々と発見されるという連続殺人にまで発展してしまう。

 殺されたはずの平吉の遺書に書いてあることが、次々と現実と化していったこの戦前におこった怪事件は、警察はもちろんのこと、全国のミステリー通たちが知恵をめぐらせたあげく、誰ひとりとして謎を解くことのできないまま、40年以上が経過した現在にいたっているという、とんでもない代物である。はたして、犯人はいったい誰なのか、そして「アゾート」は本当に完成したのだろうか?

 本書に仕掛けられたトリックが、「新本格派」ミステリーのトップを飾るにふさわしい、空前絶後のものであることは保証する。もちろん、ネタばらしはしないが、その奇怪さ、豪華さを物語るには、ある有名探偵漫画による盗用騒ぎを挙げておけば充分だろう。本書のトリックをそっくりそのまま採用したとされるその漫画は、単行本が刊行され、アニメ化され、さらには映画にもなった有名な作品であるが、そのたびごとに盗用騒ぎがおこったという。普通、ミステリーにおけるトリックのネタなど、もとをただせば必ずどこかに前例があるものであり、だからこそ著者がおこした「新本格派」の流れは衝撃だったわけだが、それでもなおこうした盗用騒ぎがおきてしまうのは、それだけ本書のトリックが、これまでにないオリジナリティ溢れるものであることを物語っているのだ。げんに、私は本書に関しては再読になるのだが、誰が犯人であるかは忘れてしまっていても、そのトリックだけはちゃんと覚えていたほどである。

 そして本書を再読してあらためて気がついたのは、そのトリックの奇想天外さももちろんのこと、トリックを取り巻く舞台、つまりトリックをいっそう引き立たせるための演出においても、見事に計算されている、という点である。占星術や錬金術の知識、「アゾート」の存在、そしてメインのトリックの周囲を飾る、数々の謎――こうした個々の要素もさることながら、本書の基本的な構造が、それらの謎に対して、おそらく読者が思いつくであろうありとあらゆる推理が展開されては、それを片っ端から否定していく、という形をとっていることに注目すべきだろう。

 いかにも古き良きミステリを思わせる、二度にわたる「読者への挑戦状」にもあるとおり、本書の中には謎解きに必要なすべての情報が提示されている。だがそれ以上に、余分な飾りもまた多いのもたしかだ。この派手な飾りと演出こそが、ある意味本書の醍醐味であると言えるだろう。なぜなら、それらはまるで華麗な手品のように、読者の視線をトリックの真相から引き離してしまう役割を果たしているからである。

 著者の作品については、これのほかにもずっと以前に『水晶のピラミッド』という作品も読んだことがあるが、著者の作品に出てくるトリックは、現実の世界であればおよそ実現不可能なものであり、それゆえにリアリティという観点において、語るべきところは何もない。だが、ではなぜ著者は奇怪で豪華なトリックにこだわりつづけ、そして彼につづく「新本格派」ミステリー作家が次々と生まれてきているのだろうか。これはあくまで私の想像でしかないが、その根底にあるのは、おそらく犯人の「動機」に関する不信感だ。

「犯罪とはすべて痙攣的なものだ」と語ったのは、『魍魎の匣』の京極堂であるが、本書において強烈な個性をひっさげて登場した探偵役、占星術師の御手洗潔もまた、似たようなことを語っているのは興味深い。

 受験生が自殺すれば受験戦争を苦にとくる。成績がトップでもビリでも中くらいでも、死ねばたちまち受験戦争を苦にしていたことになるらしい。そんな単純なものかね?! くだらないね! 大衆次元への押し下げというやつだ。

 人はなぜ自ら死を選んだり、また人を殺したりするのか――動機というのは、犯罪がおこってしまってから、自らを納得させるためにあとから付け加えるものであって、それ以上でも、以下でもない、という意見は、間違いなく正しい。犯罪を犯す瞬間というのは、いつも「痙攣的」に発生するものなのだ。であるならば、ミステリーというジャンルにおいて注目すべきなのは、人間の犯罪心理に迫ることではなく、犯罪トリックそのものではないか、という考えがあっても、けっしておかしなことではあるまい。

 猟奇的でありながら、そこにはしっかりとした論理性が息づいている、著者の華麗なるトリックに、そしてある意味で奇人である御手洗潔と、そんな彼に振りまわされる「世話女房」役の語り手、石岡和己というキャラクターの魅力を、ぜひとも堪能してもらいたい。(2003.02.02)

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