【文藝春秋】
『千日の瑠璃』

丸山健二著 



 私は物語だ。
「読んだ本は意地でも褒める」という歪んだ建前のもと、むやみに美辞麗句をこねくりまわしたがる八方美人男、そんな彼が手にしている文庫本に内包されている、物語だ。私は彼に、まず私自身を象徴している『千日の瑠璃』という表題と、私の生みの親である丸山健二という名前を指し示す。それから私は、生まれながらにして麻痺した脳と、脆弱な身体と、そんな身体にはあまりに不釣合いな完璧なる魂をもつ少年世一と、そんな彼と奇しくも巡りあったオオルリの雛との、単なる飼い主とペットという関係ではけっして語ることのできない、心の交流の千日間を語ってきかせてやる。
 私の語り手は、今日という日が昨日と同じようでいてまったく異なるのと同じように、日々流転していく。目に見えない細菌から広大無辺な大宇宙まで、自然物や自然現象も、人工物も、そして感情や思考や想いや哲学などといった抽象的なものですら、私を語る資格を有する。唯一の例外は、人間達だ。彼らに私を語ることは、けっしてできない。元はたったひとりの人間によって生み出されたはずの私であるが、その私が内に秘めている力は、書き手の意思などとっくの昔に超越してしまっているのだ。私は、およそこの世に存在するあらゆる事物の力を我が物にして、瑠璃色の魂をもつ少年世一を、瑠璃色の羽をもつ、哲学者めいたオオルリを、そんなふたりをとりまくまほろ町の自然と、そこに住む、退廃の気配とともに怠惰な日常を生きる人々を、そしてそんな町の存在など塵にも等しいはずの無限の世界や、そんな町と並行して存在しつづけるパラレルワールドを、さらには世界を越えた世界に満ち満ちている、瑠璃色の雰囲気をも語ってきかせてやる。
 少年世一は、けっして何かを主張することはない。だが、私に聞き入っている八方美人男は、そんな少年の生き様に、動揺にも似た複雑な感情をたしかに受け取りつつある。私はだしぬけに、少年世一の視線をぶつけてやる。案の定、その視線に耐えられなくなった彼は、おもむろに文庫本を閉じた。私はその刹那の時間で会心の笑みを浮かべると、いったん文庫本のなかにひきさがることにした。(7・3・土)



 私は書評だ。
 八方美人男と名乗り、いっぱしの読書家であると自負している男が、いまだかつて見たこともないような形式の小説『千日の瑠璃』に対して試みる、絶望的とも言える書評だ。彼はその小説の世界に完全に呑み込まれてしまっていた。あらゆる事物の視点からまほろ町という、ひとつの完全な世界と、そんな町で物質と暗黒物質をかきまぜて生きる少年世一という生命を見事なまでに現前させたその小説は、あらゆる読者を少年世一との比較の対象としてしまう。人間であるがゆえに背負ってしまうあらゆる苦悩や偏見から解き放たれ、完全な自由を得た代償として孤高を生きなければならなかった少年世一の姿に、読者は一様に、つまらないことにせこせこし、どうでもいいことに疑いの目を向け、ちょっとしたことに不愉快な思いをしてしまう、あまりにもちっぽけで頼りない自分の姿をまざまざと見せつけられてしまう。
 私はさかんに八方美人男を追い込んでいく。ただ文章をこねくりまわすことしかできないお前に、この小説の何が書けるのか、と言い、今までお前は、まともに読書をしたことがあるのか、と言い、お前など、この少年の足元にもおよぶまい、と言い、十年早いんだよ、と吐き捨てる。私はいいかげん、彼が書く虚飾を忠実に映し出す自分にうんざりしているのだ。そんな私をインターネットに流して満足している暇があるなら、もっと大切な、やらなくてはならないことがいくらでもあるだろうに。
 八方美人男は、そんな私の思わぬ抵抗にうろたえながらも、「それでも、私にはこれしかないんだ」と呟いて、私を完成させていく。はたして、彼には自分をとりまく自然の姿が、彼を支えている環境が、そして彼と同じように、たしかに生きて生活している人々の息づかいが聞こえているのだろうか。まほろ町はたんなる物語のなかだけのものではない。それは、『千日の瑠璃』を読む人達を内包する森羅万象の象徴であり、たしかな現実なのだ。
 そして、私は彼の代わりに、「たとえ一ヶ月を費やしても読破する価値のある本だ」とだけしめくくってみせる。(7・16・金)

ホームへ