【新潮社】
『宣告』

加賀乙彦著 



 たとえば、その日その日を常に「人生最期の日」という覚悟で生きていくことができたとしたら、私たちにとっての日常は非常に密度の濃い、充実したものとなるだろう。「一期一会」をはじめとして、私たちはそうした心構えを示す言葉をよく見聞きするが、死というものが人として生まれてきた以上、けっして逃れることのできない定めであり、またそれがいつ、どんな形で自身のもとを訪れるものなのか知りようがないものであるという意味で、私たちはまさしく「いつ死んでもおかしくない生」を生きていると言える。だが、私たちの大部分にとって、そのまぎれもない事実であるはずのものは、なんと曖昧模糊とした、リアルなものとして想像することの難しいものであろうか。

 けっして逃れられないものとして待ち受けているはずでありながら、ごくあたりまえのものとして過ぎていく日常の生のなかに埋もれてしまっている死――思えば、白石一文の『僕のなかの壊れていない部分』に出てくる松原直人にしろ、笠井潔の『哲学者の密室』に登場する矢吹駆にしろ、生が放つ光のなかに隠されている、しかしけっして消えてしまったわけではないリアルな死というものに関心を寄せ、それと対峙すべく真正面から向き合おうとしていたところがあるのだが、それは他ならぬ私たちひとりひとりが、人間の死をある種の忌むべきものとして目をそむけ、できるだけ見ないようにすることによって、あたかもその問題自体が消えてしまったかのように思い込もうとしていることへのアンチテーゼであったとも言える。そうした欺瞞は、私たちの生きる人間社会にはいくつも存在しているものであるが、そのなかでも最大の矛盾として今もなお機能しつづけているものが死刑制度であり、法の名のもとに人が人を殺すことを認めるという確固とした事実である。

 或る意味で、ここは屍体収容所ですから。わたしどもの唯一の義務は殺されること、それも恥辱の形においてくびり殺されることです。――(中略)――。何かを考えたり、何かを主張したり、何かを信じたり、まして本を書いたり歌を作ったりすることは、わたしどもの義務に反することでしかありません。

 本書『宣告』という作品において、書くべきことは多々あるが、本書の本質がどこにあるかと言えば、その舞台となっている監獄という名の、きわめて特殊な閉鎖空間そのものにある、ということになる。楠本他家雄は強盗殺人の罪で死刑を宣告された男であり、以来十六年という長い時間を死刑囚として拘留所のなかで暮らしている。物語は、おもにこの死刑囚の視点と、思いがけず彼を診察することになったある精神科医の視点によって語られていくのだが、本書を読み進めていってまず驚かされるのは、本書が文庫本で上中下巻という、けっして短くはない作品であるにもかかわらず、そこに書かれて出来事がたった数日のことでしかない、という事実である。それも、物語内の一日を経過させるのに、じつに全体の約二分の一を消費するという濃密さである。むろん、そのなかには楠本他家雄の手記という形で、彼の過去について――とくに、彼がどのような経緯でもって人を殺すに至ったのか、について回想していく章があったり、また同時進行的に精神科医の近木を主体とする章が挿入されたりしている部分もあるのだが、それを含めても、本書における時間の流れの、まるで一日が無限に引き延ばされていくかのような感覚は一種異様なものがある。

 この異様な時間の引き延ばしについて考えたとき、ひとつ結びつくものがあるとすれば、それは同じ本書のなかで語られる「濃縮された時間」という概念だ。ごく短い時間のあいだにできるだけ多くのことをやろうと忙しく立ち回る死刑囚全般の特徴を指すこの概念が、物語中の引き延ばされていく時間と結びつくとき、私たち読者ははじめて、死刑執行を待つことにのみ生きる意義をもつことが許される死刑囚たちを収めた、拘留所という空間の異様さについて認識することになる。そしてその認識は、私たちがふだん目をそむけ、見ないようにしている人間社会がかかえる闇の一端にたしかに触れている。

 法によって死刑を宣告された犯罪者が、その後どのような過程を経て最終的に死刑が執行されるのか、という、まぎれもなく人間社会のシステムとして機能している部分について、私たちが知っていることはごくわずかであるし、また私たちはそうした闇について、よほどのことがないかぎり接することを避けたいと思う部分があるのもたしかなことだ。本書はそうした死刑囚たちのリアルな現状について、小説という形であるとはいえ、世に知らしめたという意味においても貴重な作品であることは間違いのないところであるが、本書において重要なのは、死刑囚という存在、死刑という制度、そしてそうした要素が集まっている拘留所という場が、さまざまな矛盾に満ち溢れていながら、そこにかかわる人々のほとんど誰も、その矛盾に対してまるで麻痺してしまっているかのように日々を過ごしているという点である。

 死刑が確定してしまった以上、死刑囚たちに待っているのは恥辱にまみれた死のみである。しかし、それが何年先のことであるのかは――法律では六ヶ月以内と定められているにもかかわらず――誰にもわからず、そのあいだ死刑囚たちは、いつ自分の番が来るのか、という恐怖にさらされながら生きながらえることになる。その精神的苦痛について、はたして罪人が受けるべき罰として重いと見るか軽いと見るかは立場によって異なってくるところであるが、本書に登場する死刑囚たちのほとんど誰もが、精神的な異状を訴えている。常に軽口をたたかずにはいられない者、大声で念仏を唱えつづける者、あらゆるものに自分を罠に陥れる兆候を見出さずにはいられない者、いつもケラケラと笑い、手淫を看守に見せつける者――それらの死刑囚のなかではずっとまとものように見える楠本他家雄にしても、不意に襲っていく墜落の感覚に悩まされている。だが、死刑執行を待つという彼らの異常な境遇を考えたとき、彼らの精神になんらかの異状が生じてしまうのは必然であり、とすれば、精神科医として彼らを治療する立場にある近木にとっての異常こそが、まさに彼らが正常であるという証ではないのか、という矛盾が発生することになる。近木という精神科医の存在は、死刑制度の抱える矛盾を引き立たせるためのものでもある。しかも、死刑を執行するには、死刑囚が正常な精神であることが前提であり、その部分においてもさらに矛盾が生じる形となる。

 そういう意味において、本書のなかに書かれていることの大半は、それが真実であるのかどうか、どうやっても判断のつかないことばかりであると言うことができる。ある死刑囚が本当に正常であるのか、あるいは異常なのか――楠本他家雄という人間についても、彼の手記である「悪について」を読むかぎりでは、自堕落で節操のないろくでなしであり、また恐るべき殺人犯という側面ばかりが目立っているのに、心理学を専攻する女子大生との文通のなかに見出せる楠本他家雄は、妙に子どもっぽい無邪気な一面を覗かせたりしている。おそらく、彼がどんな人間であるのか、という問いに対して、たったひとつの真実を当てはめようとする試みは、まったく意味のない行為でしかないのだろう。ただひとつだけたしかなのは、死刑囚であるという、その存在自体が矛盾である立場に立たされた彼が、その矛盾のなかにあってそれでもなお、ひとりの人間として生きることを選びつづけ、それゆえに苦悩の年月を過ごすことになった、ということだ。

 死ぬまで悪人であらねばならぬ恐怖、それが本当の死の恐怖なのだ。――(中略)――もし悔悟し改心し悪人であることをやめたら、信仰によって神の許しをえてしまったら、もはや自分は処刑台に値しないじゃないか。――(中略)――イエスとは立場が正反対なのだよ。無垢なる人は殺されることに意義があった。しかし悪人は殺されることに意義がないことで、はじめて意義があるんだ。

 死がいつ訪れるか予想できないという点のみに目を向けたとき、じつは私たちも死刑囚も、立場としては同じであることに、あるいは気がつくかもしれない。違いがあるとすれば、死刑囚にはほとんどあらゆる自由が奪われている、という点であるのだが、死刑の確定によって悪人でありつづけることから逃れられなくなった楠本他家雄が、キリスト教の信仰のなかに何を見出し、そして何を思って死にのぞむことになったのか――けっして生半可な言葉では表現しきれない、私たちが人として目を向けるべき何かが、本書にはたしかにある。(2007.05.09)

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