【新潮社】
『聖なる春』

久世光彦著 



 たとえば、この世に生まれてきた以上、すべての人間はいつかは死を迎えなければならない。たとえ今すぐ、というわけではないとしても、いつか必ずやってくる死を、私たちはどうしたって避けることはできないのだ。そんなふうに考えていくと、私たちが今ここで生きていることにどんな意味があるのか――どれだけこの世で金や権力を追い求め、愛や幸福を探しつづけていったとしても、いずれ死んでしまうのであれば、すべては無駄なことなのではないか、という暗澹とした気分に陥ってしまうことになる。だが、それでもなお私たちの肉体は、生きることに執着することをやめようとはしない。その不条理さは、ときに人を苦しめ、いたたまれなくもする。

 およそ文学にかぎらず、人はなぜ生きるのかという根源的テーマは、あらゆる芸術活動の原動力である。もちろん、ただ生きていくだけであれば、芸術など何の腹の足しにもならない、まったく無駄なものでしかない。だが、それでもなお人々が何かをつくりだそうとするのは、誰もが心のどこかで、自分の生の意義を問いたださずにはいられない業を背負っているからに他ならない。おそらく、真の芸術というものは、そんな私たちが抱えるテーマに対して、いっさいの妥協を許さないものであるのだろう。人がときにある芸術作品を前にして強く心惹かれることがあるのは、そんな芸術の担い手たちがもつ精神の強さの一端に触れたときである。

 クリムトの<医学>には様々な不幸が描かれている。<医学>によって救われた幸福な人々ではなく、<医学>がありながら不幸に呻く人の群が画面いっぱいに溢れているのだ。――(中略)――それは、「幸福」という甘美な題で、陰惨で醜い<不幸>について描いたのとおなじだった。

 19世紀後半にオーストリアのウィーンで生まれたグスタフ・クリムトは、後に女性の裸像やタブーとされていた妊婦の姿などをエロティックに描く画家として、世間からの非難を浴びながらもその圧倒的な芸術性を開花させていったが、「接吻」をはじめとする、そのいかにも肉感的な女性のなまめかしい姿の奥には、常に人間が避けて通れない「死」が同居していると言われている。本書『聖なる春』に登場する語り手の「私」は、そのクリムトの偽画を手がける贋作作家であるが、それまでろくに働くこともなく、父親の遺産を食い潰しつつ女のヒモとして怠惰に生きてきた彼が、ある日執拗にクリムトの絵ばかりを模写するようになったという設定は、クリムトの絵に込められたテーマを考えれば非常に興味深いものだ。

 本書のなかの「私」は、物語のなかで、ほとんど積極的な行動をとることがない。彼のほぼ唯一の持ち物といっていい古い蔵――かつて医療器具の卸業を営んでいた彼の祖父の時代からそこにあり、戦争中の大空襲にも耐えたその蔵を寝床としているが、そこから外に出るということさえ、数えるほどしかないと言える。つまり、この物語の大部分が、その蔵のなかで展開されるのだ。彼が知り合いといえるのは、彼の絵を売りさばいてくれるフランソワなる中年男性と、気まぐれのように彼の蔵を訪れては、料理をしたり寝たりするキキという名の女性だけである。過去の追憶、クリムトの絵やキキに対する心情の吐露、そしてふと向けられる、ほんのわずかな季節の気配――全体的に、非常に静かで、まるで時間そのものがとまってしまっているかのような印象さえ受ける本書のなかで、登場人物たちは誰もが、来るべき春を待っているかのように、じっと身をひそめて生きている。だが、そんな物語が漂わせる雰囲気は、どこか哀しく、そしてある種の諦念に満ちている。まるで、春など来るはずがないとわかっていながら、それでも待たずにはいられないかのように。

 本書のタイトルである「聖なる春」は、クリムトが仲間の画家とともに新しい派閥をつくったときに、その機関誌につけられたタイトルでもあるが、はたして「聖なる春」とは何なのだろう。物語のなかで「私」は、「クリムトにも春はこなかった」と語っているが、クリムトが絵を描くことで求めていたものが、たとえば<医学>のように、医学を用いても救えない命があるという「真実」であり、またそれでもなお人間の内に生が溢れ、やがてはその生も消えうせるという「真実」であるとするなら、「私」やキキが求めていた「聖なる春」とは、文字どおり人間の生であり、また人間の死でもあると言える。

 かつて、母とともに来るはずのない男を毎日のように駅で待ちつづけてきたという過去を持つキキは、何を見てもその死の直前の姿をとらえるようになり、その姿をスケッチするようになる。彼女がとらえる未来はけっして希望に溢れているわけではなく、誰にでも必ずやっていく「死」という「真実」でしかないのだ。いっぽうの「私」は、クリムトの偽画を描きつづけるが、たとえどれだけ本物に近づけたとしても、偽画は偽画でしかないことを彼は知っている。自分では何ひとつ生み出すことができないという「真実」――本書には、そんな望んでもけっして得られないもの、取り戻すことのできないものばかりが溢れている。だからこそやるせなく、そしてこの上なく哀しい。だが、何よりこの物語がいたたまれないのは、それでもなお生に執着し、生きつづけていなければならないということである。

 ある意味、彼らは世の中をうまく渡り歩いていくことのできない、不器用な人たちなのだ。幸福を求めながら、しかし上辺だけの幸福には敏感で、どうしてもその裏にある何かの犠牲や不幸をとらえずにはいられない人々――そんな世の中の不条理にどうしようもなく敏感な人たちが、それでもなんとか生きていく様子を、同じく人間の「生」と「死」を見つめつづけずにはいられなかったクリムトの絵とともに描き出していく。本書はいわば、クリムトの絵のテーマを書いた物語でもある。

 はたして、彼らは最後に「聖なる春」の到来を見ることができたのか。やがて死んでいく身であることを承知しつつ、どうしても執着せずにはいられない「生」と向き合い、その真の意味を見出そうとした人たちの真摯な生きざまが、たしかに本書にはある(2005.03.18)

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