【新潮社】
『土曜日』

イアン・マキューアン著/小山太一訳 



 かつて、会社の同僚だったある人は、いわゆる世紀末に世界は滅亡するという予言を信じていた。いや、本当に信じていたのかどうかは本人にしかわからないことであるし、あるいは本人でさえ本当のところはどうだったのかわからなかったのかもしれないのだが、ともあれ「どうせこの世は2000年までもたないし」といったことを何度か口にしていたことを覚えている。その世紀末を八年も過ぎた今も同じ会社に勤めている私は、その同僚の言葉を思い出しながら、こんなことを考えている。本当に怖いのは死そのものではなく、むしろ生きつづけなければならないことではないか、と。人生における最悪の出来事――それこそ、死んだほうがマシだと思えるような、それまでの自分を木っ端微塵にされるような目に遭いながらも、それでもなお日常が続き、日々の生活を変わらずしていかなければならない、というのは、ともすると拷問に近い苦行であったりすることを、私はよく知っている。

 森達也の『死刑』のプロローグにおいて、サダム・フセイン元大統領の処刑後の遺体を映した映像がインターネット上に氾濫していることに触れている。私はその映像を見たことはないが、その本では2006年の正月番組でお笑い芸人たちが世界の珍味に舌鼓を打っている場面を抱き合わせにして、「どちらも今のこの世界だ」とくくっている。それは死刑という、ふだんは私たちの目から巧妙に隠されているひとつのシステムが、確実にこの世界に存在しているという認識を読者に示すじつに印象深い文章であるが、おそらく私もふくめて、相当に複雑な感情をいだくことだろうと思っている。それは、「なぜそんなことを思い出させるのだ」という苛立ちであり、それまで目をそらしてきたことへの後ろめたさでもある。知らずに済めば、それでよかったのかもしれない。だが、私たちはもう知ってしまったのだ。そして知ってしまった以上、私たちはけっしてそれを忘れることはできない。

 狂信者の脅威を追い払ってくれるのは理性尊重の態度ではなくて、ありきたりの買物とそれに付随する諸条件――第一に仕事、そして平和、実現可能な快楽を追求する心、来世ではなくこの世で食欲が満たされるという見込み――なのだ。祈りよりも買物だ。

 夜明け前の土曜日、多幸感のなかで目覚めた脳神経外科医ヘンリー・ペロウンが、ふと窓に目を向けたときに飛び込んでくる、エンジンから火を噴きながら空港に向かう飛行機の姿――本書『土曜日』におけるこの冒頭のシーンは、そのまま本書全体を象徴するものでもある。それは、ごく何気ない日常のなかに紛れ込んでくる、いや、紛れ込まずにはいられない非日常、それも、けっしてファンタジックなものではなく、人々の日常をいともたやすく打ち砕いてしまう、外からの不条理な脅威である。

 ヘンリーはその光景を目にしたとき、即座にアメリカで起きた同時多発テロ――狂信的テロリストに乗っ取られたジェット機が、乗客を乗せたままビルに突っ込んでいくという衝撃的な事件を連想する。はたしてそれは本当なのか、というひとつの謎がここで提示され、その謎をひとつのキーとして物語は進んでいくことになるが、その謎自体はけっして本書の主体ではない。じっさい、本書に書かれているのは、あくまでひとりの脳神経外科医の、ごく私的な一日の出来事でしかなく、彼やその家族が9.11テロ事件のような未曾有の災害に見舞われてしまうわけではない。だが、そこに書かれているヘンリーの日常が、この時点ですでに以前の日常――地域紛争やテロといったものが、あくまで対岸の火事でしかなかった頃の日常ではありえないことは明らかだ。

 もしかしたら、自分の今住んでいる町が彼らの次の標的になるかもしれない、という不穏な思いは、おそらく先進国で日常生活を営んでいる人たちの誰もが、多かれ少なかれ意識せずにはいられないものだろうと考えるのは、それほど難しいことではない。じつのところ、そうした強迫観念こそが、9.11テロ事件が人々にもたらした最大の災厄だったとさえいえるのだが、本書に書かれているヘンリーの日常は、そういう意味においてすでに変化してしまった日常であると言える。知らずにすめば、それでよかったのかもしれないが、否応なくそうであることを知ってしまった以上、何かがいびつな形で変化してしまったものを、私たちはどうすることもできない、という意味で。

 あるいは、あらゆる危機と同じく今回の危機もいずれは色あせて次の危機に舞台をゆずり――(中略)――忘却の領域にとけこんでいくだろうと。けれども、最近はそうした考え方が楽観的すぎるように思えてきた。もともとの性格とは反対に、自分は順応しつつあるのだ。

 本書の中心人物であるヘンリーは、脳神経外科医として着実なキャリアを積み、その地位を確立しつつある中年男性である。妻ロザリンドのことを心から愛し、息子のシーオはミュージシャンとして、娘のデイジーは詩人として、すでにそれぞれの道を歩みつつある。何の問題も見当たらない、この上なく幸福な家族の形がそこにはある。もちろん、認知症をわずらい、老人ホームで暮らす母のことや、妻の父親であるジョンとデイジーとの確執など、まったく問題がないわけではないが、それもまたいずれの家族もかかえているものだ。そして、本書のなかに書かれている「日常」とは、自分たちが今こうした家族の幸福を味わっているあいだに、別のどこかではその家族の形が決定的に壊されてしまっているのだというたしかな現実感であり、それが自分のもとにも訪れるかもしれない、という現実感でもある。

 ヘンリーの脳裏には、さまざまな想念が去来しては消えていく。自分が見た光景が、恐るべきテロのはじまりなのではないかという不安、そのいっぽうで、そうした事態に密かな期待をいだいている心、火を噴いた飛行機がじっさいにはテロではなく事故だとわかったときの安心と、ちょっとした失望感――そんな揺れ動く心を示しつつ、それでもなお著者はヘンリーの一日を緻密に描き上げていく。それは、同僚とのスカッシュ勝負であり、妻との愛の営みであり、今日集まってくる家族のための買い物であり、病院で毎日のように行なっている手術など、医師としての仕事でもある。本当に何気ない、どこにでもありそうなその日常は、しかしイラクへの派兵に反対するデモといった要素と重なりあうことで、まるで祈りにも似たものへと変わっていく。自分たちにとっての日常を維持すること、まるで、そうすることこそが、自分にできる唯一の使命であるかのように。

 だが、同時にヘンリーは脳神経外科医であり、専門的な知識と技術を有する者である。そして専門知識があるということは、ふつうの人が知りえない情報を知りえる可能性がある、ということでもある。そういう意味で、ヘンリーの職業もまたこの物語のなかで象徴的な意味合いを帯びている。知らなくてもいいことを知ってしまうこと、そして、知ってしまった以上、それをどうにかできるのであれば、そのために何かをしなければならないということ――本書ラストにおけるヘンリーの行動は、それゆえに重いものとして、読者の前に迫ってくることになる。

 前述の『死刑』において、問題は論理から離れたところで展開していく。論理は人を説得する材料にはなるが、人を突き動かす衝動にはなりえない。9.11以降、もはや以前の日常はありえないが、それでもなお人々は、それぞれの日常を繰り返していかなければならない。日常が、ある日突然非日常となるかのしれない、という不安――けっしてありえないことではないその不安を認識していく過程が、そのままもうひとつの「日常」と化していく世界のありようが、本書にはたしかにある。(2008.09.04)

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