【光文社】
『おさがしの本は』

門井慶喜著 



 以前紹介した森谷明子の『れんげ野原のまんなかで』の書評でも書いたことであるが、私という個人にとっての図書館という公共施設は、おもに無料で本を貸し出してくれる場所という意味で、非常に重要な場所となっている。そのいっぽうで、出版業界に身を置く者としては、まさにその「無料の貸本屋」としての機能ゆえに、昨今の図書館の、とかく新刊売れ筋本を何冊も蔵書して本の貸出数を増やそうとする傾向に複雑な思いを寄せていたりもする。だが、そもそも図書館の本来の機能とはどういうものなのかという問題を考えたときに、私が思い浮かべるのは、『マイクロソフトでは出会えなかった天職』で著者が取り組んでいる運動のことである。彼は世界じゅうの図書館のない町や村に図書館を建て、さらにそこに本を届けるという活動をつづけているのだが、その本質としてあるのは、人は生まれた環境や身分、貧富の差に関係なく、誰もが知識や情報に触れる権利を有するというものである。

 過去の歴史を振り返ってみればあきらかなことだが、かつては書き言葉というものは、一部の人間にのみ与えられた特権として機能していた。それは知識の独占に他ならないものであるが、近代の学校教育の義務化がその状況を変えた。図書館はその一環として位置づけることができる。本を買う金がない人でも、図書館に行けば本が読めるし、本を貸してもらうこともできる――それは何かを調べたい、知りたいという知識欲について、どこまでも許容することを意味している。そしてそれは、そうした恩恵をあたりまえのものとして享受している私たちにとって、図書館という施設を考えるうえで重要な立ち位置となるはずである。

 しょせん図書館など知の宝庫ではない。単なる無料貸本屋か、そうでなければコーヒーを出さない喫茶店にすぎないのだ。少なくとも市民の目にはそうなのだ。

(『図書館ではお静かに』より)

 本書『おさがしの本は』に登場する和久山隆彦は、N市立図書館に勤める若き職員。司書の資格をもち、最近の三年間は図書館のレファレンス・カウンターで本に関する相談を受ける業務に就いているが、彼が今の図書館勤務にけっして満足しているわけでないことは、上述の独白からも見てとれる。もっとも、彼が図書館勤務そのものを望んでいなかったわけではない。むしろ、誰よりも強く図書館ではたらくことに意欲をもち、公務員試験合格一年目から市立図書館に配属になったことを幸運にさえ感じていたのだが、まさにその情熱ゆえに、じっさいの図書館が置かれている現実とのギャップが、必要以上に和久山を幻滅させることになったという背景がある。

 ここでひとつはっきりさせておかなければならないのは、和久山隆彦が考える図書館のあるべき姿とはどういうものなのか、という点である。それは言い換えるなら、図書館という施設がはたすべき役割ということになるのだが、それは少なくとも「無料貸本屋」でもなければ、「コーヒーを出さない喫茶店」でもない。全部で五つの作品を収めた連作短編集という構成をとる本書において、和久山はレファレンス・カウンターに持ち込まれた本探しの依頼に取り組むことになるのだが、ある意味その仕事ぶりこそが、ひとつの答えとして成り立っているところがある。

 たとえば『図書館ではお静かに』では、ある女子大生がレポートの課題となった本を探しに来るのだが、彼女はその著者である「森林太郎」が文豪森鴎外の本名であることを知らないばかりか、「シンリン太郎」と読んでしまうという体たらく。つづく『赤い富士山』では、依頼者の老人の記憶に残っているのは表紙のイメージのみ、それも、赤く染まった富士山の写真が載っている本という、なんとも漠然とした情報のみで、求めている本を探すことになる。そして、こんなふうに作品内容を挙げていけばおのずと気がつくことであるが、和久山が引き受けることになる本探しというのは、コンピュータの力では歯が立たないようなものばかりである。

 昨今の出版事情において、本の刊行点数は一日に百点を軽く超えるペースだと言われている。そんな膨大な点数のなかから望む本を探すのに、本の情報をデータベースとしてデジタル化し、コンピュータで検索をかけるという方向性は非常に有意義なものがある。少なくとも以前のような蔵書カードによる検索よりは、はるかに効率がいいし、メンテナンスの手間も段違いだ。だが、こうした検索の難点は、本のタイトルなり著者名なりを正確に覚えていなければならないということである。何より、漠然とあるテーマに関連する本がないか探したいという要望には、コンピュータによる検索は不利である。

 まさに知識や情報量ではなく、人間の知恵をなによりも必要とする本探し――そういう意味において、本書は本という犯人の真相に迫るミステリーとして位置づけることができるわけであるが、和久山は探偵ではなく一介の司書にすぎず、むしろ司書としての知識ゆえに問題の本質を取り違えてしまい、かえって回り道をすることがほとんどである。上述の『図書館ではお静かに』においては、「森林太郎」と聞けば即「森鴎外」という雅号が出てくるだけの知識はあるし、また『最後の仕事』におけるある小説のワンシーン――怒張したペニスを障子に突き立てる場面と聞けば、すぐに石原慎太郎の『太陽の季節』を思い浮かべることができる。だが、それだけでは探し求める本にたどりつくことはできないのだ。

 本書で和久山が対峙する本探しは、回答者をひっかけることに主眼を置く「いじわる問題」のようなところがある。じっさい、『図書館滅ぶべし』という短編においては、図書館廃止論をとなえる潟田直次がN市立図書館の副館長として就任し、研修という名目のもとにある本を探すように命じるのだが、その内容は通常業務ではまずありえないような、非常に手の込んだいやらしい問題だったりする。言ってみれば、それらの問題はきわめて人間臭い性質をもっているものである。本書はそうした人間臭い問題に対して、和久山がどのようにして取り組んでいくのかの過程もふくめて楽しむことのできる作品であるわけだが、本書を読み進めていくと、同時にそれこそが、彼の求めている図書館の「あるべき姿」として結実していくことに読者は気づくことになる。

 図書館のかかえる現実に失望し、知らないうちに四角四面の役所仕事のような態度をとっていた和久山が、レファレンス・カウンターにもちこまれた本探しの依頼を通じてどのように変わっていくのか、そして彼が見いだした図書館の存在意義とはどういうものなのか――本好きな人もそうでない人も、ぜひその内容をたしかめてもらいたい。(2013.05.19)

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