【講談社】
『サージウスの死神』

佐藤憲胤著 



 金があれば、たいていのものは手に入れることができる。金そのものはただの金属片や紙でしかないが、それはさまざまな物やサービスと交換可能なものとして機能している。社会における強固な約束事によって、その価値が保たれているもの、それが金の本質だ。それゆえに、その価値観を共有できない代物、あるいはそうした価値観の外側にあるものについては、金は何の役にも立たない。簡単に言うなら、金で買えないものは、たしかに存在するということである。だが、それは私が思いつくかぎりにおいて、たったふたつしかない。

 ひとつは不死。もうひとつは幸運である。

 どれだけ多くの金をもっていても、人はいずれ必ず死を迎えるし、またどれだけ多くの金があったとしても、どうしようもない偶然によって不幸に見舞われる可能性をゼロにすることはできない。だが、それでも人間は、そのふたつを望み、欲することから逃れられない。そしてそのために金が動き、ビジネスが成立していることも事実だ。若さを保つための化粧品やエステ、あるいは「パワーストーン」といった怪しげなグッズなど、その手の商売には事欠かない。それは、それだけ多くの人が、金では手に入らないものを求めている証左でもあるが、もし本当に死や偶然を遠ざけ、逆に支配したいと望むのであれば、本来の金の使い方では駄目なのだ。今回紹介する本書『サージウスの死神』は、何よりそのことを意識させる作品である。

 ここにあるのは偶然だけだ、俺はそう思った。みんな偶然にテーブルに集まり、偶然でカネを失い、偶然でカネを得て、偶然で時間を埋めようとする。ギャンブルはまるで分割された自殺行為だ。自殺のシミュレーション。そこには破滅に向かっていく魅力がある。

 広告デザイン会社に勤めている一人称の語り手である華田克之が、あるきっかけを契機にギャンブル、それも非合法のカジノにあるルーレットでのギャンブルにのめり込んでいく様子を描いた作品、などと書いてしまうと、典型的なダメ人間の転落人生を思い浮かべてしまうのだが、本書がそうした典型と異なっているのは、そのきっかけとなった出来事がもつ象徴性である。飛び降り自殺の目撃――それも、昼飯のために外を歩いていたときに、自分の目の前に人が落ちてくるというのは、できれば生涯経験したくない出来事であるが、ここには二重の意味で死のリアルがゆらめいている。ひとつは、他人の死の瞬間を目撃することで想起される死のリアルさであり、もうひとつは、飛び降り自殺した人間が、他ならぬ自分自身にぶつかってくるかもしれない、という意味での死のリアルさである。

 言ってみれば、華田は他人の死と同時に、自分自身の死をも強烈に意識させられたことになる。しかもそれは、けっして観念的なものではなく、肉が裂け、血が噴き出し、脳漿が飛び散って破壊されるという、圧倒的なまでの死である。そしてもし運が悪ければ、飛び降り自殺した人の巻き添えを食らって自分も死んでいたかもしれないのだ。そうならなかったのは、ただの偶然にすぎない。

 まるでサイコロを振るかのように、人間の生死が定まってしまうというのは、このうえない不条理である。前述したように、死も偶然も、金の力ではどうすることもできないものの二大要素であり、金の力が通用しないということは、すなわち私たち人間の力が通用しないことと同義でもある。華田はルーレットにのめり込んでいく。そしてその過程で、ルーレットの次の目が見えるようになる。まるで予知能力のようであるが、そこには安易に金を稼ぐための便利な力というよりは、その力を発揮するために他のあらゆるものを犠牲にしていくかのような、ある種の悲壮感がある。それは、ギャンブルを娯楽だと考えている人には、絶対に到達しえない感覚だと言える。なぜなら華田にとって、ギャンブルとは、人智の外にある死と偶然に対する抵抗であり、またそれを制御するためのはてしなき挑戦でもあるからだ。

「でも本来ギャンブルでやりとりするのはそういうものだと俺は思いますね。偶然と死、この怪物に手綱をつけようとするんです。だけど誰もこの怪物を見ることはできない。そこでカネの力が必要になるんです。――(中略)――偶然や死が通過した痕跡を人間はカネによってだけ見ることができるということですよ」

 本書を読んでいくと、この語り手の華田という人物について、およそ人間臭さの希薄さを感じずにはいられない。それは、彼の出生や家族といった要素がいっさい語られておらず、言ってみれば、彼がそれまでたしかにこの世界に生きてきたという痕跡が巧妙に隠されているからに他ならないのだが、他の小説であればマイナス要素となるはずのこの特徴が、本書では逆にそのテーマ性を強調する役目を果たしている。死や偶然といった、超越的なものへと挑む者は、普通の人間のままではいられないということ――ギャンブラーに限らず、ギャンブルがもつある種の熱狂は、どこか普通であることを逸脱させるものを感じさせるが、その熱狂を狂気にまで至らしめることで、ギャンブルを人智を超えた高みへ向かうものとして表現することに成功しているのだ。だが、仮に死と偶然を超えることができたとして、そこにはたして何があるというのだろう。

 ギャンブルに本気でのめり込んでいく人間が、多かれ少なかれ自滅に向かっていくように、華田の行き先にあるものは、けっして明るいものではない。むしろ、どう考えても破滅に向かって突き進んでいるようにしか思えないのだが、金がたんなる約束事から、死や偶然の痕跡として見えるようになったそのときから、物語はようやく動き出したと言うべきかもしれない。偶然に死から逃れた男が、その生についてどのように思い、また死をどのように思うようになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2010.12.14)

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