【集英社】
『サラの柔らかな香車』

橋本長道著 



 天才と呼ばれる人物について、ごく簡潔な言葉で語るとすれば、こんなふうに言い表すことができる。「自分にはない何かを持ち合わせている者」――ここで言うところの「何か」とは、とにかく規格外でとんでもないと思わせるもののことであるが、こうした発想のなかに見え隠れするのは、良くも悪くもその人物が自分と同じ人間だとは思いたくない、という気持ちである。それが良い方向であれば神格化となるし、悪い方向になれば差別や弾圧の対象となるのだが、いずれにしろ天才と呼ばれる人たちは、もはや競争相手とは成りえない存在として周囲から遠ざけられる運命にある。なにせ、人間として同格ではないのだ。この世に神が実在したとして、その神と争っても勝てるはずがない、という発想が、多かれ少なかれ「天才」という言葉のなかには含まれている。

 だが、ここで別の切り口を与えてみると、天才というのは、あくまで彼の周囲にいる者たちによってもたらされるもの、というひとつの前提が浮かび上がってくる。これは逆に言えば、どれだけ自分が天才だと思い込んでいたとしても、周りが天才だと評しないかぎり、あくまで個人の思い込みの域を出るものではない、ということである。世間が「とにかく規格外でとんでもない」と評している事柄も、当の本人にしてみれば、案外ごく普通のこと、あたりまえのことと思っているのかもしれないのだ。そういう意味では、彼らもまた私たちと同じ人間なのだという、ごく当たり前の結論に到ることになる。だが、周囲から人間あつかいされないというのは、いったいどれほどの孤独なのだろうか。それこそ凡人には想像の範囲外のことである。

「有り得ない、有り得ないぞ。……この娘は神か悪魔だ。この娘はこの先、関わる世界の一つを滅ぼす。それは避けられぬ運命だ」

 本書『サラの柔らかな香車』の中心に鎮座するのは、あるひとりの女の子である。護池・レメディオス・サラ――本格的に将棋をはじめて三年、プロの女流棋士としてデビューしてから二年という短期間で、すでに女流タイトルに手をかけようとしている、この金髪碧眼の白人少女である彼女は、まさに将棋にかんしては破格の「天才」と呼ぶにふさわしい資質の持ち主と言っていいものがあるが、現女流タイトル保持者である萩原塔子との、タイトルをかけた一戦を描くかたわら、棋士養成機関である奨励会にかつて在籍していた記者の視点から、そんなサラという少女が今にいたるまでの足跡を追うという本書を読み進めていってわかるのは、本書はたしかにサラという破格の天才のことを書いた小説であるが、同時に彼女の周囲にいて、彼女に影響をあたえたり、あるいは影響されたりした人々の物語でもある、という点である。

 もともとインド発祥の軍事ゲームが、日本という風土のなかで独自の発展を遂げたものが将棋である以上、将棋という遊戯はきわめて日本的なイメージの強いものである。主人公であるサラの白人少女としての容貌は、将棋というイメージのなかにあってはかなり異質で目立ったものであるが、サラのこうしたキャラクター設定が、たんに見た目のインパクトだけを狙ったものだと判断するのは早計だ。なぜならその非日本人的容姿もふくめて、サラという少女を象徴するのは、その天才ぶりというよりは、むしろ周囲になじむことができずに孤立しているという点にこそあるからだ。そしてそれは、物語が進んで彼女のことが少しずつ見えてくるようになればなるほど、より鮮明なものとなってくる。

 ――才能って何だろう? 天才ってどういうことだろう?

 人よりすぐれた将棋の才をもちながら、けっきょくはプロの棋士になれないまま終わってしまった一人称の語り手である記者を突き動かす原動力となっているのが、上述の引用のなかに集約されている。その鍵をにぎる者として彼が注目した人物こそサラという少女であるのだが、彼女自身のことについて、どれほどのことがわかってきたのかというと、まるで広大な海原を眺めているかのように判然としない部分があまりにも多い。そもそもサラは、相手と言葉によるコミュニケーションをほとんどとることができない。こちらから話しかけても、断片的な日本語の単語を返すだけで、彼女が何を考え、どんな感情をかかえているのかがまったくわからないのだ。それゆえに小学校では特別学級あつかいとなり、やがて不登校になってしまうのだが、ごく断片的に、彼女の天才を思わせるエピソード――たとえば名人戦の「次の一手クイズ」において、誰も予想しなかった名人の「次の一手」を当ててみせるといった、才能の片鱗によって、かろうじてサラの興味のあることの一端が見えてくるのみである。

 そもそも才能というものについて、何かを語るというのは想像以上に難しいものだ。というのも、ただたんに「才能がある」というだけでは、じっさいには「何もない」のと同義でしかないからだ。また、「楽しむことができるかどうか」とか「努力しつづけることができるかどうか」といったものも才能と言えなくはないものの、そうした漠然としたものまで才能とカウントしてしまうと、あまりに範囲が広がりすぎてしまって、もはや「才能」という言葉の特別性が失われてしまう。才能の有無というのは、その才能を発揮する場があって、さらにその評価が明確な形で提示されることで、はじめて見えてくるものである。それゆえに、才能という言葉はおもに勝負事の世界において多く用いられるものであるのだが、ここでひとつ明らかなのは、サラという少女は、そもそもあまりに周囲から孤立しすぎていて、彼女ひとりではそうした才能を発揮する場にコミットする機会すら与えられない、という点である。そして同時に、だからこそ本書は彼女だけでなく、その周囲にいる人たちの物語でもある、ということである。

 たとえばサラの将棋の才能を見いだし、彼女を女流棋士としてデビューさせた瀬尾健司、サラと同じく女流棋士となるだけの才能をもちながら、サラのもつあまりにも大きすぎる才能ゆえにその道を断念してしまう北森七海、そしていろいろな意味でサラとの因縁の深い現タイトル保持者の萩原塔子もふくめ、本書ではサラ以外の「才能の持ち主」も多く登場する。じつはこれらの登場人物たちの、サラを媒介とした思いがけないドラマというのも、本書の読みどころのひとつではあるのだが、それ以上に重要なのは、彼らが将棋という道具を介して、サラとの接触を試みようとしている点である。彼女は言葉によるコミュニケーションをとることはできない。だが、生まれ故郷である南米において、祖父からきわめて変則的な形ではあるが、将棋の指し方について学んでいた。もちろん、こうしたサラの過去について、彼らは何も知らない。しかしながら彼らにとっての将棋が、あくまで勝負の場であるのに対し、サラの将棋は、それ自体がひとつのコミュニケーションとして成立している部分があるのはたしかだ。

 サラの存在が、ひとつの奇跡であるという事実――それは、彼女が生まれたときに魔術師が発した不吉な予言や、そもそも遺伝的にはありえない彼女の青い目という部分からも見て取れるのだが、それでもなお、本書のタイトルが『サラの柔らかな香車』とつけられているところに、著者の「天才」に対するひとつの矜持が現われている。将棋を指すことが、そのまま豊なイメージとして即座に結びつくという共感覚保持者でもあるサラに、もともと鋭い槍のイメージである香車に柔軟なイメージを結びつけ、彼女の将棋をさらに奥深いものにしたのは、他ならぬ瀬尾健司の功績であるからだ。サラは、ひとりではけっして天才として突出することはありえなかった。彼女の周囲に、彼女の将棋に共感された者たちがいたからこそ、サラは棋士としての彼女となりえたのである。そしてそのことこそが、ひとつの奇跡でもある。

 私はけっして将棋にくわしいわけではないが、それでも本書のなかに、将棋という名の世界の魅力がこのうえなく詰まっていることくらいは感じることができる。それはまさに、感動的としか言いようのないものである。サラの指す柔らかな香車の一手が、どのような新たな世界を見せてくれるのが、ぜひとも確かめてもらいたい。(2013.04.23)

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