【講談社】
『三月は深き紅の淵を』

恩田陸著 

背景色設定:

 私も読書家のはしくれである以上、人より多くの本を読んでいるという自覚はあるが、たとえ何百冊もの本を読破したとしても、すばらしい物語を宿した本と運良く出会うことができたときの気持ちというのは、きっとどんなときも変わらない新鮮さに満ちているに違いないという確信がある。まさに寝食を忘れて物語の世界に没頭し、物語の登場人物に感情移入しながら、むさぼるように本を読んでいるあいだ、私の心はたしかに現実の世界を離れ、めくるめく想像の世界を旅している。圧倒的なビジュアル情報によって、受け手に想像する余地を与えにくいテレビやゲームではなく、言葉という、たったひとつの表現形式によってすべてを構築していく小説によって生み出された物語が、もしこの世になかったとしたら、私たちの人生はきっと味気ない、つまらないものになってしまうだろう。そういう意味で、私たちは想像する生き物であり、まさにその一点によって、私たちは他の動物たちと隔てられている、と言うことができるのだ。

 すばらしい物語との出会いは、その人の人生を豊かなものにする。だが同時に、出会った物語がすばらしいものであればあるほど、その物語がいつかは終わってしまうことに郷愁にも似た想いを味わわなければならない、というのもまた事実である。なぜ、物語はいつか終わってしまうのだろう、常に現在進行形の物語、本を閉じてもなお深い印象とともに思い出すことのできる物語、存在そのものがひとつの伝説であり、その伝説があらたに伝説を生み、けっして同じ形にとどまることのない、成長する物語が、どこかに人知れず存在するのではないか――本書『三月は深き紅の淵を』が書かれた背景には、まさに究極の物語の形、どんな人をも魅了せずにはいられない物語を形にしたいという、非常に大それた野心があったのではないか、と思えてならない。

 本書の内容は全部で四部構成になっており、各章はそれぞれ、ある謎を軸にして進められていく。そういう意味で、本書の基本はミステリーであると言うことができるだろう。だが、その軸となる謎は人や事件などではなく、ある一冊の本である。実在するのかどうかも本当のところはわからない、だが、読書家の間では伝説として語り継がれており、それを巡るエピソードが今も付加されつづけている本――「伝説の本」というフレーズは、まるで古びた宝の地図のように、人々の心を魅了する不思議な力を秘めている。

 第一章「待っている人々」は、ある会社に勤める読書好きのサラリーマン鮫島巧一が、同じ会社の会長が主催する「三月のお茶会」に招待されるところからはじまるのだが、話が進むにつれ、そのお茶会の真の目的が、広大な会長の屋敷に隠されたある本を探し出すことにある、ということを知る。「三月は深き紅の淵を」という名のタイトルの私家版――噂によると、非常に少部数しかつくられなかったというその本には著者名がなく、コピー厳禁、人に貸すときは一人だけ、しかもたった一晩だけしか貸してはいけない、といった制約がつけられているという。会長とその友人たちが、その本の内容について夢中になって議論しているのを聞いているうちに、巧一もいつしかその本の魅力に惹き込まれ、その在りかを求めて推理をはたらかせる……というストーリーである。

 本の中にもう一冊の本が出てくるという、入れ子構造の物語は、たとえば加納朋子の『ななつのこ』や、小森健太朗の『ネメシスの哄笑』などがあるが、本書の内側にある本もまた四部構成、しかもその内容についてかなり詳しいところまで踏み込んで書かれており、読者はまるで巧一のように、その本への興味を深くすることができるようになっている。

 第二章「出雲夜想曲」もまた、幻の本を巡る物語である。作家や作品の内容についての様々な噂の絶えないその本の正体をつかむべく、編集者の堂垣隆子が、同じ編集者仲間である江藤朱音をさそって出雲行きの寝台列車に乗り込むのだが、その本に関するお互いのエピソードや感想などを語っていくうちに、まったく思いがけないところから、おもいがけない人物へとその真相がつながっていく、というストーリーで、第一章が幻の本の内容紹介であるとすると、この第二章は、幻の本が生まれた経緯のほうに焦点を合わせてつくられた物語であると言ってもいいだろう。

 第三章「虹と雲と鳥と」は、一見すると「三月は深き紅の淵を」とは関係なさそうな、ある少女の死をメインに据えた物語で、高台に位置する公園の崖下に転落死したと思われるふたりの女子高生――篠田美佐緒と林祥子の関係者たちのモノローグや対話をめぐるうちに、徐々にふたりの死の真相が明らかになっていく、というものである。ふたりの死の謎に血縁関係をめぐる因縁がからんでくるところなど、この第三章あたりから、少しずつ外側と内側の「三月は深き紅の淵を」の共通点が多くなり、その境目が曖昧になっていく前兆のようなものを感じさせる作品だ。

 そして第四章「回転木馬」――ある意味で本書の真骨頂とも言えるこの章で、外側と内側、ふたつの「三月は深き紅の淵を」は完全に渾然一体となる。今まさに「三月は深き紅の淵を」を書こうとしている作者らしき「私」の思考の流れを追うような形の物語なのだが、そのうちに寝台列車で旅をしている「彼女」の物語、三月の国と呼ばれる場所での出来事を描いた物語が、まさに回転木馬のように入れ替わり立ちかわり出現し、本書の実在はおろか、現実と虚構の区別さえ曖昧になっていく、という構造を成している。よくよく読み返してみると、内側と外側の両方を含めた「三月は深き紅の淵を」の断片があちこちにちりばめられており、探せばいくらでも新しい物語の要素を見つけ出せそうなこの第四章は、まさに本書の中でも述べられているように「目を閉じれば、モザイクのようなきらきらした断片が残像のように甦る話」として完成するのである。

 それにしても、こうして本書の書評を書いていると、なんとも奇妙な気持ちになってくる。というのも、本書の中でも同じく「三月は深き紅の淵を」に関するさまざまな意見が書かれていて、どんなに言葉を尽くしても、すでに本書に書かれたことの焼きまわしにしかならないような気になってくるのである。ある意味、本書ほど人から書評されるのを拒む作品も珍しいのだが、この効果がまさに著者の思惑どおり作用しているのだとすると、本書はたしかに「伝説の本」として成功したと言うことができるのかもしれない。

 本書の第二章で、江藤朱音は昔、本というものが人間の頭から生み出されたものであることを知って、ショックを受けたという話をする。

 今でも人間が小説を書いていることが信じられない時があるもんね。どこかに小説のなる木かなんかがあって、みんなそこからむしりとってきてるんじゃないかって思うよ。

 人間の低俗な自己表現のために存在するのではなく、あくまで物語のためだけに存在する本――ひょっとしたらこれこそ、その「小説のなる木」から生まれた伝説の本なのかもしれない、という想いを抱かせる本書の雰囲気を、ぜひ味わってもらいたい。(2000.07.17)

ホームへ