【講談社】
『最悪』

奥田英朗著 

背景色設定:

 人間の一生のなかで起こるさまざまな出来事について、もし「良いこと」と「悪いこと」という分け方ができるとしたら、その比率はちょうど半々くらいであり、だから悪いことばかりがそうそう長くつづくことはなく、同じように良いこともけっして長くはつづかない、といった意味合いのことを、どこかで聞いたことがある。だが、自分の身にふりかかってくる事柄が、はたして本当に良いことなのか、あるいは悪いことなのか、ということを判断するのは、けっきょくのところ当人の主観性に一存されることであり、とらえかた次第によっては容易に入れ替わってしまう程度のものでしかない。たとえば、大金を手にすることができたという事実はたしかに幸運なことではあるが、そのことによって家族の諍いが深まったり、もし泥棒に入られたりしたら、といった不安を常時かかえるようなことになるのなら、結果として大金を手に入れたことはその人にとって不幸なことだった、ということになる。

 他の人のことは知らないが、とかく「良いこと」よりも「悪いこと」ばかりよく覚えていて、まだ世の中を斜に構えるようなところの抜けない私にとって、人生は「良いこと」よりも「悪いこと」のほうが圧倒的に多いんじゃないかと思えて仕方がないのだが、自身のどんな不幸も生きる糧のひとつとして「良いこと」ととらえてしまえるほど人間ができていない以上、それはそれで仕方のないことだとなかばあきらめてはいる。だが、最近になってふと思うことは、世の中はたしかにちょっとしたことがきっかけで、ひとりの人間を不幸のどん底に突き落としてしまうこともあるが、逆にどんなに不幸のどん底にあっても、そんななかで見つけたほんの小さな幸福がきっかけで、生きる希望をつないでいくこともありえるのではないか、ということである。つまり、人が人として生きていくのに、じつはわずかな幸福さえあれば、それで充分なのではないか――そんなふうに思うようになっているのだ。

 本書『最悪』は、まさにそのタイトルどおり、人生の最悪な状況に陥ってしまい、せっぱつまった登場人物たちがついつい加担してしまう犯罪のことを書いた作品である。言ってみれば、真保裕一の『奪取』に代表されるような犯罪小説であるが、彼らが起こすことになる犯罪行為はけっして計画性のあるもの、熱い理念に裏打ちされたようなものではなく、むしろいきあたりばったり、無計画極まりない代物といってもいい。そういう意味において本書の真の読みどころとなるのは、いかにして犯罪をやりおおせるか、ということではなく、その犯罪行為にいたるまでに、それぞれの登場人物の身にどのようなことが起こったのか、ということになってくる。

 物語は大きく三つの視点に分けられる。ひとつは町の小さな鉄工所の経営者として、勤勉に部品加工の仕事をつづけてきた川谷信次郎の視点、ひとつはその近くにある都銀の支店に勤める女性行員、藤崎みどりの視点、そしてもうひとつは、定職に就くこともなく、その日その日をパチンコや恐喝で稼いだあぶく銭で過ごしている、ケチなチンピラである野村和也の視点である。すでにある程度の想像はつくかと思うが、この三人を結ぶ接点は、まったく無きに等しい。じっさい本書を読み進めていっても、この三つの物語の流れは、多少のすれ違い程度の接近はあるものの、決定的な接点をもつことなく、ほぼ平行線をたもったままである。

 だが、読者はすぐにこの三人に共通したものがあることに気がつくことになる。それは、彼らが一様に、まるで坂道を転がっていくかのごとくどんどん悪い方向に追いつめられていく、という点である。

 なんなんだよ、どいつもこいつも自分の都合ばかり言いやがって。こっちがおとなしくしてりゃあつけ上がりやがって。そうそういい顔ばかりしてられねえぞ。

「他人に多くを期待しない」を信条に、なかば達観したような姿勢をもっていた川谷信次郎をして、上述のようなセリフを吐かせてしまう状況――それはたとえば、下請け会社であるがゆえの、取引先からの無茶な注文に応えなければ死活問題になることや、近所の住民からの騒音の訴え、さらには市役所の介入といった軋轢の数々であり、藤崎みどりにすれば、妹の素行の問題や、勤め先で起きたセクハラの被害、さらにはそのことが怪文書となって本社にまで伝わってしまうという屈辱であり、野村和也にいたっては、彼がしでかした犯罪行為がヤクザの逆鱗に触れ、彼女を人質にとられたあげく大金を手に入れなければならない、という状況におちいってしまうのである。そして、ひとつの不幸がまるで導火線のように、次々とより大きな不幸を引き起こし、ますます登場人物たちを泥沼に陥れていく。その追いつめっぷりがきわめて秀逸であり、読者はこれからどうなることかと目が離せなくなってしまうのだ。

 本書のなかで、彼らは自身もまったく自覚がないまま、ある大きな犯罪の遂行に導かれていくことになるが、じつは彼らの誰もが根っからの悪人というわけではなく、むしろその過去や、彼らを襲った不幸の連続を思えば、同情すべきところさえある、一種の被害者なのだ。だが、ここで問題となってくるのは、彼らが何かの被害者であるかどうか、ということではなく、彼らがいずれも、物語が進んでいくにつれて「自分こそが被害者だ」という意識をもつにいたった、という点である。この「自分こそが被害者だ」という意識は、しばしば「だから、これくらいのことをやったって許される」という歪んだ特権意識へと変貌する。本書のなかに、そうした心理が露骨に表現されているわけではないが、追いつめられながらも、そんな彼らのちょっとした言動のなかに、そうした歪みが見え隠れするような描き方をしている部分はいくつか見つけることができる。そしてあるいは、それまでずっと被害者でありつづけた人間が、ふとしたきっかけで容易に加害者にもなりおおせてしまうという、奇妙で複雑な人間の心こそが、本書のもっとも大きなテーマであるのかもしれない、とも思うのだ。

 けっきょく、「最悪」という名の坂道をとことん転がり落ちていった登場人物たちが、どのような結末を迎えることになるのかは、ぜひ本書を読んでたしかめてほしいところであるが、そこには妙にすがすがしく、ある意味で「救い」ともいうべきものがあった、ということだけは付け加えておこうと思う。(2005.12.05)

ホームへ