【文藝春秋】
『賢者はベンチで思索する』

近藤史恵著 



 人間が主観の生き物だということは、これまでの書評のなかでも何度か述べてきたことのひとつであるが、同じ光景を見ているはずなのに、それに対する受け取り方、考え方が人それぞれ異なってくることがある、ということを考えたとき、一番怖いと感じなければならないのは、物事に対して自身の「思い込み」を優先してしまうことである。「月極」を「げっきょく」だと思い込んでいた、という程度ならまだかわいいものだが、強い思い込みというものが、ときに人が人に対する残酷な行為でさえ正当化してしまうことがあることは、それまでの歴史が物語っていることでもある。

 そして、人間が主観の生き物である以上、この「思い込み」の問題は私たちがはまり込んでしまう思わぬ陥穽として、常に身のまわりで口を開けている。私自身の例でいえば、私は昔、小説を書いていたのだが、そのときつくづく思い知ったのは「自分の知らないことは書けない」ということだった。小説というものはそもそも虚構なのだから、こうした言い種には矛盾が生じることになるのだが、これは言い換えれば「思い込みで何かを表現しても、それは薄っぺらなものにしかならない」ということでもある。文章を書くことに対するこうした性質は、じゅうぶんにわかっているつもりだった。だが、その「わかっているつもり」という「思い込み」が、今度はサイトにアップする書評について、ある題材のもつ本来の形を歪めてしまうような内容のものを書かせてしまったりする。思い込みの怖さというのは、そういうところにもある。

 だいたい、あの老人はあまりにも年齢不詳である。ロンドで、老眼鏡をかけて新聞を読んでいるときには、やたらよぼよぼで、八十代くらいに見える。だが、公園で会って話すと、そんな年齢にはとても感じられない。せいぜい七十といったところだ。

 本書『賢者はベンチで思索する』に登場する七瀬久里子は現在、家の近くにあるファミリーレストラン「ロンド」でアルバイトをしているフリーターである。もともと服飾関係の専門学校の卒業生なのだが、思うような仕事先を見つけることができなかった結果としてのフリーターであり、家族のなかでの立場は微妙なところにある。そんなアルバイト先のレストランには、週に何度かやってきて、かならず同じ席に座るという老人の客がいる。店内がさほど混んでいない時間帯に、コーヒー一杯を数時間かけて飲み、帰っていく老人――周辺の住民からは痴呆の心配をされているほど、よぼよぼな外見をしている国枝老人であるが、久里子はそんな老人が近くの公園にいるときは、しっかりとした口調で話し、また飼い犬であるアンが誤って毒物を食べたときには、的確な指示を出してその命を救うだけの頭をもっているということを知っている。

 本書は大きく三つの章に分かれていて、それぞれの章でそれぞれ何らかの事件が起こり、最終的に謎解きが果たされる、という物語展開となっている。そういう意味では、本書は三つの短編を収めた作品集という見方もできるのだが、これら三つの章のなかでも一貫している問題提示があるとすれば、それはまさに国枝老人の存在そのもの、ということになる。はたして、この何かと謎の多い老人は何者なのか? 第一章、第二章と、それぞれ起きた事件を通じて、少しずつ提示される国枝老人の情報が伏線となって、第三章においてすべてを締めくくるにふさわしい謎と結びつくことになり、そのあたりはむしろ、連作短編集としての楽しみも持ちあわせている。

 だが、そうしたミステリーとしての要素にも増して、本書を深く印象づけるものがあるとすれば、それは七瀬久里子をはじめとする登場人物たちの、複雑で微妙な心の揺れ動きを描いていく力に尽きる。とくに、久里子のある人物に対する思い込みの変化が、物語が進むにつれてどんどん悪い方向に傾いていくという、その心理の変化が秀逸だ。たとえば第一章では、近所の雑種犬が殺されたり、毒を仕込んだ餌を飼い犬の前に投げ込んだりといった悪質な事件が起こる。彼女の飼い犬アンもその被害に遭った。それと並行するようにして、弟の信の不審な行動に気づいてしまう、というふうな展開となり、久里子は「ひょっとして」と思わずにはいられなくなってしまうのだ。ひょっとして、信が事件の犯人ではないのか、と。

 調査の過程で登場人物が見聞きする情報の数々が、ことごとくひとつの事実を指し示しているように思えてくるのだが、そうした事実に対する思い込みが、逆に事件の真相から遠ざけてしまうというテーマは、たとえば広川純の『一応の推定』がある。しかし、『一応の推定』の主人公の場合、あくまで自分が保険調査員のプロであるという矜持をもち、それが最終的に取りこぼしそうだった真相をつかむことができたのに対して、本書の主人公である七瀬久里子は、まだ二十代の女性にすぎない。就職先は決まらない、このままでいいとは思っていない、だが、どうしたらいいのか見当がつかない――アルバイトはしているし、今日や明日のことで、やらなければならないことはあるのに、その仕事がどこにもつながっていかないという焦りは、じつは彼女だけでなく、本書に登場する若者たちが共有している閉塞感でもある。そして、そうした閉塞感は、いかにも評論家などが事件を分析するさいに、好んで使う言い回しだったりする。

 本書における国枝老人の役割は、そうした久里子の迷いや混乱が妙な方向の「思い込み」へと傾いていくのを押しとどめ、正しい方向へと導いていくことである。そういう意味で、老人が事件の真相を推理していくという過程は、悪い意味での「思い込み」が親しい人や自分自身を傷つけてしまうのを防ぐためのものであり、だからこそ本書の謎解きには深い味わいがともなうものとなっている。とくに第三章については、それまで久里子が描いていた国枝老人のイメージが大きく覆されるような情報が次々と明らかになり、これまで彼が請け負っていた謎解きを、ほかならぬ久里子自身が行なわなければならないという展開となり、ミステリーとしての要素が人間の成長と前進というテーマとも結びついていく。そして、この場合の「成長と前進」が、良い方向への「思い込み」であるという事実は、非常に印象的である。

「そう、悪いことより、いいことの方がたくさん起こる。それに、こう考えておきなさい。いいことが起こっても、次に悪いことが起こるとは限らない。反対に悪いことが起これば、次はいいことが起こるんだ、とね」

 私たちは常に、偏った方向への「思い込み」に陥ってしまう危険にさらされている。本書のなかでも、久里子の両親が動物嫌いだと思い込んでいたというエピソードをはじめ、さまざまな「思い込み」が出てくる。だが、そのすべてが悪いものではなく、もっとも怖いのが、心に不安を感じたときに、その不安から逃れるために無理やり理詰めで物事を考え、それが正しいと思い込んでしまうことだ、ということを、本書は物語っている。「それでも、きみは悲しいのだろう」という国枝老人の言葉、そして「七瀬さんが落ち込んでるのも事実だろ」という弓田の言葉は、ともすると不安定で脆い私たちの心を、ふと軽くしてくれるような何かがたしかにある。(2008.02.13)

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