【新潮社】
『サフラン・キッチン』

ヤスミン・クラウザー著/小竹由美子訳 



 たとえば親にとって、子どもというのがいつまで経っても自分の息子や娘であるという意識をもちつづけるものであり、たとえ子どもが一人前の大人になり、結婚して自分の家庭をもつような年齢になったとしても、なかなかそうした認識からは逃れられないものだったりする。そして同じようなことは、子どもにとっての親というベクトルにもあてはめることができる。息子や娘にとって、両親というのは生まれた瞬間から親であって、それはしばしば彼らがひとりの対等な人間であるという認識よりも上位にくるほど強力なものでもある。それゆえに、ひょんなことから若い頃の父や母のエピソードに触れるようなとき、私たちはしばしば自分たちが思い描く父や母のイメージとの微妙なギャップに困惑させられることになる。息子や娘にとって、父や母という役割を負っていない両親というのは、なかなか想像しづらいものがあるのだ。

 子どもにとっての親という存在、親にとっての子どもという存在――家族という単位をすみやかに維持していくには、親が親としての役割を、子どもが子どもとしての役割をはたしていけばそれで充分であって、極端なことを言ってしまえば、それ以上の何かが必要とされるわけではない。だからこそ、血のつながりのない関係であっても、立派な家族を維持できる親子関係も厳然として存在するわけだが、逆に言うなら、家族としての関係が何らかの理由で成り立たなくなるような事態に陥ったときにこそ、親と子どもはそれぞれの役割から一度離れ、ひとりの人間として相手を再認識する必要に駆られることになる。今回紹介する本書『サフラン・キッチン』という作品について、語るべき要素はいくつもあるが、私が本書を読み終えてまず感じたのは、家族という単位でそれぞれが担う「親」や「子ども」といった役割と、ひとりの人間としての確固たる意志のあいだにある、かぎりなく曖昧な境界線にかんするものだ。そしてそれは、個人を束縛する義務や責任といったものと、その対極にある自由の関係にもつながっていくものである。

「あなたのご家族は裕福だった。あなたに自由を与える余裕があったんです」
「さあどうかしら。自由はね、愛情だけじゃなく憎しみゆえの贈り物の場合もあるのよ」

 物語は一人称の語り手であるサラの流産という、いささかショッキングな出来事からはじまる。その引き金を弾いたのは、サラの母親であるマリアムだった。まだ若い頃に故郷のイランを離れてイギリスに移り住み、イギリス人のエドワードと結婚してごく普通の平穏な家庭を築いてきたマリアム――だが、最近になって起こったサラの叔母にあたるマラーの死と、その後マリアムの家に身を寄せてきたマラーの息子サイードとの共同生活は、年老いた彼女の心の奥に長く封じ込めていたある忌まわしい過去を呼び起こし、マリアムの心の安寧を大きく揺さぶるきっかけとなっていた。

 過去に何度もイランへ里帰りしていながら、自分の生まれ育った村へだけはけっして足を向けようとしなかったマリアムの不安定な言動は、サラの幼いころからたびたびまのあたりにしてきたものでもあった。父エドワードからマリアムが今回、その生まれ故郷であるマーズレーへと自分を見つめなおす旅に出たことを知ったサラは、ひとつの必然として母の過去について思いをめぐらせずにはいられなくなる。結果として、自分が流産するきっかけとなったマリアムの過去――じつの娘にも、夫にも語ろうとしないその過去において、いったい何があったというのか。

 サラを主体とする一人称と、マリアムを主体とする三人称が絡み合うようにして展開していく本書において、母と娘との関係の変化は大きなテーマのひとつと言える。サラとマリアムはたしかに家族という関係によって結びつけられてはいるが、その関係が昔ほど相互依存的なものでないことは、サラがすでに成熟した女性として仕事に就き、結婚もしているという状況からも想像できる。そういう意味で、本書冒頭においてサラが妊婦であったという設定は、まさにサラにとって親子というひとつの家族のありかたから、夫婦というひとつの家族のありかたへの価値観の移行の間際にあったということの象徴でもある。

 同時に、本書を読み進めていくとわかってくるのだが、この母と娘の関係は、そのままマリアムにとっての父親、イランにおいて国王軍の将軍という職にあった父との関係へとシフトしていく。本書においてサラが求めていくマリアムの過去にかんする秘密とは、このマリアムと父との関係の変化が大きく絡んでいることは、物語の最初のほうである程度わかってくることではある。結婚をめぐるある騒動、使用人だったアリへの淡い恋心、そして何より、村の古い因習や身分の違いといったものに縛られることを拒み、あくまで独立したひとりの女性としての道を進みたいと願ったマリアムに対して、父親が与えた罰――だが、その結果として、イギリスという異国の地で家庭をもつことになった今のマリアムの立場、そしてサラとの関係を成立させている家族という関係を考えたとき、私たちはあらためて家族というひとつのありかたについて、考えずにはいられなくなる。

 私がイランという国について知っていることは少ないが、アラブ系国家において、女性の立場が男性のそれと比べてけっして高いわけでないことは、本書のなかにおいてもさりげなく描写されている。一夫多妻制を基準とする表現などがそうであるが、こうした国の文化の違いというのも、本書のテーマのひとつである。そして、サラがマリアムを母としてではなく、ひとりの女性として理解するためには、この国の違い、文化の違いもまた大きな障壁となってくる。

 イランという地を故郷としてもちながら、文化も言葉も異なる国でまったく新しい家族という関係を築いていかなければならなかったマリアムと、イギリスで生まれ育ち、イギリスという国の習慣も言葉もあたりまえのように受け入れてきたサラ――そこには家族という関係、血縁というこのうえなく強固なつながりがありながら、個人としては容易に理解しがたい断絶が横たわっている。本書をあくまで、このふたりの女性の家族としての関係をメインとして置くのであれば、それは崩壊と再生の物語だと言うことができる。そしてそれは、けっして既存の価値観にとらわれることのない、新しい人間関係のひとつの可能性でもあり、さらに言うなら、それぞれの価値観も政治的思惑も異なる国どおしの関係にもつながっていくものでもある。

 はたしてマリアムにとって、イギリスという異国で築いた家族は、彼女の自由を束縛するものであったのか、あるいは彼女の新たな心の拠り所であったのか――はっきりとした答えがそこにあるわけではない。だが、どんなにつらく悲しいことがあったとしても、そこから生まれてくるもの、育まれていくものもたしかにあるということを、本書は教えてくれる。(2007.09.05)

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