【東京創元社】
『さよなら妖精』

米澤穂信著 



 自分が今のままでいいのか、という疑問は、ときにいらだたしいほどの焦りの感情となってその人を襲うことがある。たとえば、今の私の場合にあてはめてみるなら、このまま今の仕事をつづけていくべきなのか、ということを漠然と考えたりすることはある。もちろん、それはあくまで「漠然」とした疑念であって、具体的に何がどのように不満なのか、あるいは不安なのかを指し示すことのできるものではなく、それゆえに日々の生活や仕事に追われて忙しいときなどには、たいてい頭の中から振り払われてしまう程度のものでしかない。だが、たとえば私のよく知る友人が難易度の高い公的資格を取得したという話を聞いたり、同僚が会社をやめて独立開業することを決意したり、あるいは会社の同期の人間がいち早く昇進したりといった、身近なところで起こったそうした変化をまのあたりにすると、必然的にその人たち――何はともあれ動きはじめた人たちと、その場にとどまったままのように思える自分自身とを比較してしまい、自分も何か動き出さなくてもいいのか、という焦燥に駆られてしまうことになる。

 もちろん、人は人、自分は自分と泰然とかまえていることができるなら、それにこしたことはないのだろう。世の中にはいろいろな立場の人がいて、ときには信じられないような行動をとったり、思いもよらない選択をしたりすることも、理屈としてはおおいに納得できることである。だが、ただの知識として知っているということと、まさに実体験として目の前で起こったこととは、読書家のひとりとして認めるのは心苦しいながら、やはり衝撃の度合いが違うし、そうして起こったことに対して、誰しもが平静でいられるほどの強い心をもっているわけでもない。すでにいい大人である私にしたところでそうなのだから、ましてや思春期の少年少女にしてみれば、なおのことそうだろう。

 本書『さよなら妖精』に書かれているのは、おもにある女の子に関する記憶だ。彼女はマーヤと名乗り、ユーゴスラヴィアから来たと語った。1991年の春、そのときはまだ藤柴市の高校に通う三年生だった守屋路行は、友人である太刀洗万智とともに下校する途中、雨宿りをしているマーヤと出会い、二ヶ月のあいだ藤柴市に滞在するという彼女のためにステイ先を紹介した。そうした外国人への親切は、そのときの彼にとってはたんなる成り行き上のことでしかなかったが、それがきっかけとなって、彼らはマーヤの友人として親しく接する機会を得たことになる。

 ここでまずはっきりさせておかなければならないのは、本書のメインとなるマーヤに関する事柄が、現時点ではすでに過去の出来事として語られている、という点である。時期としては1992年の7月、つまりマーヤが自分の国に帰ってから一年が経過した時点を現在として、守屋がつけていた日記をもとに、過去を振り返るという形式をとっているのだが、本書の冒頭を読んだだけでは、守屋をはじめとする登場人物たちがどういう状況にあり、そして何をしようとしているのか、はっきりしたことはわからないようになっている。読者としては、彼らの共通の友人であるというマーヤがどういった人物なのか、という謎をまずは突きつけられ、その答えを見出すべく本書を読み進めていくことになる。

 そういう意味では、本書はミステリーとしての色合いの濃い作品だと言うことができる。じっさい、守屋の日記のなかでは、しばしばマーヤの口から彼女が目にしたちょっとした不思議な出来事に対する疑問が投げかけられ、それは守屋たちにとってもたしかに不可解なことのように思えることなのだが、まず大刀洗が事の真相を見抜き、彼女のヒントをもとに守屋がなんとか謎解きを披露する、という流れがいくつか物語のなかに組み込まれている。そしてそれはたしかに、北村薫の『空飛ぶ馬』からはじまる円紫師匠シリーズや、あるいは加納朋子の諸作品に見られる、いわゆる殺人の起きないミステリーのひとつとして位置づけられるべき要素のひとつではあるが、それ以上に重要なのは、マーヤが発する疑問が大抵の場合、彼女が異国の人間である、という条件によってはじめて生じるたぐいの謎であるという点だ。

 つまり、本書の謎の大半は、マーヤという人物がいなければそもそも謎として成立することもない謎であり、そういう意味でマーヤという人物は守屋たちにとって、ひとつのたしかな現実として彼らの住む世界になんらかの衝撃を残していったということである。そして本書がたんなるミステリーとしてではなく、思春期の少年少女の複雑な、ちょっとむずがゆくなるほどの心理をうまくとらえた青春小説としても秀逸であるのは、そうしたミステリーの部分が、そのまま国の違い、文化の違い、思想の違いから生じるギャップ――必然的に比較せざるを得なくなる、自分の今いる環境との違いを思い知らされるという部分と、直接つながっていくことにある。

 おれは、これになら賭けてもいいと思えるようななにものにも出会ったことがない。――(中略)――おれはそれを、仕方がないことだと思っていた。二十世紀の日本で生きるに問題のない生活を送っている、その望んでも得られない幸運のいわば代償だと。しかしそれはそんなに遠いものなのか? 現にマーヤはここにいるというのに。

 ユーゴスラヴィアがじっさいには六つの共和国によって成り立っていること、その地で武力衝突をともなう紛争がおこり、その戦禍がさらに拡大していきそうだということ、そしてそれを承知で、あえてマーヤは故郷に帰っていったこと――それ以前のさまざまな彼女の発言もふくめて、物語はやがてひとつの大きな謎へと読者を導いていくことになる。もちろん、それが謎であり、そして本書がミステリーであるのなら、最後には謎解きがあり、ことの真実が指し示されるのだが、その謎を解く役割を与えられた登場人物は、守屋も、あるいはいっけん物事を冷静に受け止めていそうな態度を崩すことのない太刀洗にしても、じつは年齢的に未熟な一個人でしかない。言い換えれば、探偵という役割を担うには幼すぎる、ということでもある。そして最終的に得ることのできた真実は、そのことによって喜びが生まれるわけでも、誰かが救われるわけでもなく、むしろ物事の真実を突きつめたところでどうにもならない現実がある、という無力感ばかりが強まる結果を生む。

 警察にしろ探偵にしろ、彼らが動き出すのは殺人事件が起きたときであり、そのとき殺された被害者は、けっして生き返らせることができない、という意味では、彼らもまた無力である。だが、まだ未来があり、良い意味での無謀さをも持ち合わせている若者たちは、しばしばそうした現実をも変えられるのではないか、いや変えられないにしても何かができるのではないか、と考えることをやめない。本書はそうした若者たちの心理を知りつつ、その未熟な精神を逆に青春小説における武器のひとつとして昇華させることに成功したミステリーだと言うことができる。

 まるでファンタジーの異世界にあこがれるがごとく、マーヤのいる世界に思いを募らせていった守屋の考えは、たしかにいかにも思春期の少年にありがちな、およそ現実味のないものでしかない。そして、そうした憧憬を打ち壊すには充分なほど、明かされた現実は厳しく、容赦のないものとして彼らの前にその姿の一片を見せた。真実を知ることとはどういうことなのか、そしてその真実を知ったうえで、これからどうしていくべきなのか――ちょっとしたミステリーでは味わうことのできない、何かを深く考えさせられるものが、本書のなかにはたしかにある。(2005.11.01)

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