【早川書房】
『サマー/タイム/トラベラー』

新城カズマ著 



 私がこれまでに読んできた、比較的最近になって出版されたタイムトラベルものの作品を振り返ってみたときに、ふと気がついたことがある。犯罪に走る過去の自分を未来の自分が説得するという黒武洋の『パンドラの火花』、意識だけが過去の自分自身へと跳んでしまう小路幸也の『カレンダーボーイ』、現在の記憶を保ったまま三十年前に戻る垣谷美雨の『リセット』、そして24世紀から過去へとやってきたアンドロイドたちの話である山本弘の『去年はいい年になるだろう』――時間跳躍というテーマを扱ってはいるものの、いずれの作品も未来から過去への時間跳躍であり、その逆を扱ったものではない。そして過去から未来への時間跳躍を書いた、比較的最近の作品として何があるかと考えたとき、その数が驚くほど少ないという事実。

 もちろん、私はすべてのタイムトラベル作品を把握しているわけではないが、それでも未来へのタイムトラベルものの作品として、かろうじて思い出したのが北村薫の『スキップ』のみというのは、私の選書が相当偏っているか、でなければ未来跳躍をテーマにした作品の絶対数が少ないということになる。ちなみに、高畑京一郎の『タイム・リープ』やオードリー・ニッフェネガーの『タイムトラベラーズ・ワイフ』などは、過去にも未来にもタイムトラベルする話ではあるが、これらは厳密には時間跳躍というよりは、時間の流れがランダムに入れ替わってしまう「タイムリープ」であって、純粋に未来へと跳んでいく時間跳躍ものとは言いがたい。

 さて、ここまでの前置きで勘の良い方ならある程度予想はついたかと思うが、今回紹介する本書『サマー/タイム/トラベラー』は、純粋な未来跳躍もののタイムトラベル小説である。そして本書を読み終えた私がまず思ったのは、純粋な未来跳躍をテーマにした小説の絶対数が少ないのは、今の世の中が輝かしい「未来」を想像しづらい世界と化してしまっているからではないか、ということである。

 そして人類は、決して銀河系いっぱいに広まったりはしないだろう。――(中略)――『未来』という輝かしくも安っぽい鍍金は、国際貿易の退潮と共に、どこかへ……ぼくらとは無関係の深くて暗い底のほうへ、流れ落ちてしまうことだろう。

 人口二十万弱の地方都市、辺里市の県立高校に通う卓人の一人称で語られる本書の中心となるのは、彼の幼馴染である悠有という名の女の子だ。存在感の希薄さが、そのままもっとも印象的な特徴となってしまうような、そんな地味で目立たない彼女が、夏休み前の学校行事であるマラソン大会の最中に引き起こした時空間跳躍――ほんの数秒間だけ、未来へと自身を跳ばしたというその現象は、卓人をはじめとする遊び仲間たちの知的好奇心を刺激するに充分な威力をもっていた。はたして悠有の力は本物なのか、本物だとしたらどのような原理によるものなのか、その能力はどれくらいコントロールできるものなのか、できるとすればどんな条件が付随するのか――〈時空間跳躍少女開発プロジェクト〉と名づけられたそれは、いつものように暇と頭脳をもてあました、頭の良い卓人たちの少しばかり刺激的なお遊びの範疇のはずだった……。

 ほんの数秒、最長でも三秒の、未来への時空間跳躍というのは、じつにささやかな能力であるうえに、物語のはじめのほうではその発動条件すらはっきりとしていない。ともすれば、ただの勘違いですまされても不思議ではない悠有の力が、〈時空間跳躍少女開発プロジェクト〉という大層な名前とともに卓人たちの分析と調査の対象となったのは、彼らの置かれている特殊な環境と、特殊な立場によるところが大きい。プロジェクトの発起人として皆を引っ張っていく響子は名門・聖凜女子学園のお嬢様にして、奇抜な発想を持ち前の頭脳で次々と実現していく天才であるし、卓人と同じ高校の涼は文武両道の秀才かつハンサムな容姿のお坊ちゃま、辺里市にさまざまな伝説で語られる見た目は不良少年のコージンもけっして頭が悪いわけではない。卓人にしても、いくつもの語学を習得し、半端ではない読書量で豊富な知識を暗記するだけの優秀さを持ちあわせており、そんな彼らがひとつところに集まれば、さぞかし凄いことができそうなものなのだが、彼らがその頭脳をフル回転させて行なうのは、SF談義をはじめとするおよそ非建設的な知的ゲームばかりである。

 人より頭の回転が早いがゆえに、自分たちのいるこの世界のどうしようもない行き詰まり――さまざまな形で、未来への借金ばかりが膨れあがっていく世界の形が見えてしまう卓人は、高校生でありながらどこか人生を達観し、妙に醒めた思考を先行させてしまう。「未来」に対して何ひとつ期待していない、期待することができない卓人というキャラクターは、未来跳躍という能力とは対極の立場を象徴していると言える。そしてそれは、響子や涼たち少年少女、さらには彼らの住む辺里市といった、物語を構成する要素が多かれ少なかれ抱えているものでもある。

 さまざまな問題がありながら、その根本的な解決に乗り出すことなく、先延ばしにすることばかり考えている大人たちの身勝手や醜さに呆れはてながら、いずれは自分もその汚い大人になってしまうのではないか、という不安は、必然として未来へと「進む」ことへの躊躇いとなる。卓人たちの知的ゲームは、「進む」ことへの躊躇と、しかし「ここではないどこか」へのわずかな期待という矛盾を象徴するものだが、そうした要素に焦点をあてたとき、悠有という少女と、そんな彼女にあたえられたささやかな未来跳躍の、本書における役割が見えてくることになる。

 プロジェクトの進行とともに、少しずつ能力のコントロールが可能になる悠有、それと同時に、自分の能力の限界――過去には跳べないことや、誰かと一緒に跳べないこと――を知ることになる悠有、そしてその能力を、素敵な何かのために使いたいと思い始めている悠有。本書は辺里市の地図や歴史といった詳細な設定や、卓人たちが集まる図書館のような喫茶店「夏への扉」など、彼らの住む世界の独特の雰囲気の面白さ、連続放火事件の真相といったミステリーとしての要素の面白さもあるが、何より未来跳躍という能力に著者がどのような意味をもたせたかったか、という点こそが評価されるべきところなのだ。おそらく、そのためにこそ本書は書かれたのだから。

 ただ単に、ひとりの女の子が――文字どおり――時の彼方へ駆けてった。そしてぼくらは彼女を見送った。つまるところ、それだけの話だ。

 未来とは、「未だ来ていない」時間のこと。そしてその未来を見てみたいという人間の想いは、そこに希望があってはじめて発生する心理でもある。この閉塞感溢れる現代において、それでも見果てぬ未来へと「進む」ことを決意したひとりの少女の物語は、それだけで大きな意味をもつことになる。なぜなら、未来へ跳んだというその事実をもって、未来は不確定なものではなく、いずれは私たちを迎えてくれるものへと変化するからだ。そしてその事実は、私たちが未来に向かって一歩を踏み出すための、大きな後押しとなってくれるに違いない。(2012.01.18)

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