【白水社】
『灯台守の話』

ジャネット・ウィンターソン著/岸本佐知子訳 



 以前紹介した七河迦南の『七つの海を照らす星』は、児童養護施設で暮らす女の子たちのあいだで広まっている「学園七不思議」の謎を追うというミステリーであるが、その七不思議の裏には、過去において心に深い傷を負い、自分自身をうまく肯定することのできない女の子たちの姿があった。「学園七不思議」そのものは、たんなる作り話にすぎないのだが、その不思議な話を自身にとっての「真実」として受け入れることで、どうにかこうにか自分が自分であるというバランスを保っている子どもたちの存在が、作品の大きなキーポイントとなっていた。

 たったひとつの真相、唯一無二の現実を明らかにすること自体は、けっして悪いことではない。だが、物事の真相というものは、えてして苛烈で残酷なものを含んでいたりするものであり、またけっして誰の目にもわかりやすい形で提示されているものでもない。だからこそ人は、しばしばそうしたややこしい真実よりも、見た目が美しくてわかりやすい虚構に飛びついてしまうものであるが、社会的責任を負う大人であればともかく、あらゆる点で未成熟な部分を残す子どもたちにとって、目に見える現実こそがすべてだと説くのは、あまりに酷だと言わざるを得ない。それでなくとも、子どもの認識する世界は狭く、ごく限定されている。そのごく狭い現実で、何か耐え難いほどつらく悲しい出来事が起きてしまった場合、今の現実しか見えていない子どもたちは、まさに逃げ場のない状態に追い込まれてしまうことになる。

 どうして人は物語を紡ぐのか。どうして人は、物語に惹かれずにはいられないのか。ただの作り話にすぎない物語が、現実にとってなんの価値もないものだとすれば、なぜこの世界にはかくも多くの物語が溢れているのか。今回紹介する本書『灯台守の話』の根幹には、なにより「物語を語ること」というテーマがある。そしてそれは、ひとりの人間がまぎれもない自分自身、揺らぐことのない確かなものを求めて彷徨う遍歴の物語でもある。

「――だがな、お前さんに本当に教えてやらねばならんのは、光を絶やさないようにすることだ。どういう意味か、わかるか?」
 わたしはかぶりを振った。
「物語だ。それをお前さんは覚えなきゃならん。わしが知っているのも、わしが知らないものも」

 崖の上に斜めに突き刺さるようにして建っている小さな家に、母親とふたりで暮らしていた語り手のシルバーが、その母親の死後、ケープ・ラスの灯台守であるピュー老人の手に引き取られ、以降、灯台守の見習いとして育てられる、という形で物語が進んでいく本書であるが、この「灯台守」あるいは「灯台」という要素には、多分に象徴的な意味合いが含まれている。灯台とは、港や岬に建てられて、夜間に光を放つことで船を安全に導くためものであり、灯台守とは、その灯火が絶えることのないよう、守る者のことである。海原の天候は変わりやすく、どんな不慮の事態が起こるかわからない。そもそも陸地から離れて、きわめて不安定な海の上へと船を漕ぎ出すということ自体、多くの危険がつきまとうものでもある。そんな船乗りたちにとって、常に不変でありつづけるものが、灯台の光なのだ。

 本書における一人称の語り手は常にシルバーであり、そうである以上、本書はシルバーの主観が書かれている作品であり、また彼女の人生の物語でもあるのだが、彼女の語りには、現実と虚構との境界線がこのうえなく曖昧なところがあり、それがこの物語に独特の印象をもたらしている部分がある。たとえば、彼女が暮らしていた家があまりに斜めに傾いているので、家から外に出るのにも登山並みの労力を必要とし、母親の死因が足を滑らせての転落死であるというくだりや、盲目の老人であるピューが、まるで何百年も前から生きていたかのように、過去の物語を語って聞かせることなど、ある種のマジックリアリスム的な要素があるのだが、それが現実を超えるということを意図しているのかと言えば、かならずしもそういうわけではない。それは、語り手であるシルバーの、周囲に向ける視点の問題だと言うことができる。

 常に斜めになっている家で暮らさなければならない生活というのは、人生とは常に不安定なもの、まっすぐに立つことのできないものであるというシルバーの認識が生み出した「物語」である。逆に言えば、そんなふうに自身の人生をひとつの「物語」として語らなければ、自分を見つめなおし、再構成することができなかったということでもある。そんなふうに考えると、母親の「転落死」という、およそ非現実的な出来事もまた、彼女にとって耐えうることのできる「物語」としての筋書きだということになる。

 シルバー自身が物語のなかで語っているように、本書に書かれている物語を、どんなふうに順序だてて説明すればいいのかは、なかなか難しい。なぜなら、本書はシルバーが語る物語であると同時に、ピューがシルバーに語って聞かせる、灯台にまつわる物語でもあるからだ。なかでも、バベル・ダーク――ケープ・ラスの灯台を建てたジョサイア・ダークの息子の物語は、いろいろな意味でシルバー自身の物語と混じりあい、交錯するようにして進んでいくのだが、それは牧師でありながら神の存在を信じることができなくなり、再婚した妻とかつての妻であるモリーとの二重生活を送らなければならなくなった男の、心の拠り所を求めて苦悩する物語でもある。

 灯台が無人化されることになり、シルバー自身が灯台の代わりとなるたしかな土台を求めて遍歴する部分と、バベル・ダークの苦悩と分裂の物語は、お互いに呼応する関係となっている。彼らはいずれも、拠り所とする何かを求めている、という共通点を持っている。ダーウィンの『種の起源』が神の創造した完全なる世界に疑問を投げかけ、スティーヴンソンは、人間のなかには未成熟で野蛮な人格が隠されているのではないか、という発想から『ジキル博士とハイド氏』を発表する。世界は常に変転し、まるで大海原のように定まることがない。そんななか、たしかな光をもって船を導く灯台の役目をはたすものとして、何を拠り所にすればいいのか――そんなふうに考えたとき、『灯台守の話』という本書のタイトルが、そして灯台ごとに語り伝えられているという物語が、にわかに大きな意味を帯びてくることになる。

 自分ほど愛することの難しいものはない、なぜなら愛と自分本位はべつのものだから。自分本位になるのはたやすい。ありのままの自分を愛することは難しい。誰かにそうされて、わたしが驚いたとしても無理もない。

 自分自身を物語ることは、自分の過去を見据え、時系列に並べ、再構成していくことでもある。そしてそれは、何よりありのままの自分を肯定しなければできない作業でもある。そして本当の意味で、ありのままの自分を見つめることのできる人は、ほんのわずかしかいない。誰もが何かしらの心の傷やコンプレックスを負い、直視できないそうした負の部分を、ふだんの生活の忙しさを理由に忘れ去ろうとしていく。自分を語るということは、多かれ少なかれ物語という虚構を語ることでもある。それでもなお、そうした虚構もふくめたすべてが自分であるとするのなら、そのすべてを包みこむことのできるのは、人間がもつ愛以外にない。ようするに、本書は「愛の物語」だということである。そしてそれは、私たちが思うほど恥ずかしいことでも、胡散臭いものでもないのだ。(2009.10.18)

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