【河出書房新社】
『最後の吐息』

星野智幸著 
第34回文藝賞受賞作 

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 あるいはそれは、まったく意味のわからない言葉で唄われている音楽を聴いているような感覚、と言えるかもしれない。あるいは、ぜんぜん知らない言語で書かれた書物を目にしているような感覚、とも言えよう。どちらにしろ、自分がそれまで慣れ親しんできた言語とはまったく体系の異なる言語と接するとき、まず認識するのは、その言葉の意味ではなく、聴覚や視覚などといった五官に訴えてくるフィーリング――小鳥のさえずりのような歌声だとか、幾何学模様のような文字だとかいった感覚だ。ひたすら感覚でとらえようとすることによって意味から解放された言葉は、まさに銭湯での話し声が反響に反響を重ねて増幅されていくかのように、無限の想像力をふくらませていくことになる。
 本書『最後の吐息』で著者が狙っていたのは、あるいは日本語という、私たちが日頃からなじみの深い言語が持つ意味を一度崩壊させ、感覚に訴えさせることで新しい世界を構築することなのかもしれない。

 メキシコの大学院に通っている真楠という男は、日本にいる恋人の不乱子に宛てる手紙に、一篇の小説をつづる。その小説のなかでは、ミツという、金細工を彫る青年が登場し、かつて見た魚の金細工の彫り手を探してやってきたメキシコで、ジュビアという女性と出会い、恋に落ちる――読み進めていくとわかることだが、本書には物語らしい物語はない。いや、もしかしたらあるのかもしれないが、私は少なくとも、物語そのものに大した意味はないのではないかと考えている。というのも、話の筋を追っていくうちに、文の連なりがもっていたはずの意味が次第に意味をなさなくなり、知らないうちに、まるで真楠が重力異常を感じて宙をさまよっているかのような、前後不覚の状態に陥ってしまうからだ。

 意味をなくしてしまった文章――もし、そこに何かが残っているとするなら、それはその文章を構成している単語ひとつひとつが独自にもつ、感覚的な要素だ。それらの要素は、視覚や聴覚だけでなく、読み手の嗅覚や味覚、そして触覚にも訴えかけてくる。メキシコという土地で仰ぎ見る太陽の光、むせかえるようなグアバの香り、フルーツシロップの甘ったるい味、そしてジュビアの肌の感触――ふだんから文章の意味を追うことに慣れきっていた私たちは、だんだん本書の意味ではなく感覚を読みとろうと努めるようになる。もちろん、それこそ著者のおもうつぼ、というわけなのだが、その仕掛けのあまりのさりげなさ、絶妙さは賞賛に値する。その傾向は、本書に収録されている『紅茶時代』になるとますますその強さを増してくる。

 あなた、自分が魚だと思ったことあるでしょう? 草だと思ったことあるでしょう? 肉だと思ったことあるでしょう? お話の登場人物だと思ったことあるでしょう? 布でできていると思ったことあるでしょう? 瓶だと思ったことあるでしょう? こうしてあなたの過去を暴き立てていくと、今後何になっていいのか、わからなくなってきたでしょう? いまもどうしていいか、わからないでしょう? さっきまでどうしていたのか、わからなくなったでしょう?(『紅茶時代』より)

 言葉とは、人と人とが互いにコミュニケーションをとるための、唯一にして不完全な道具でしかない。どんなに言葉を尽くしても、自分の伝えたい事柄を100パーセント相手に伝えることは不可能なのである。そんな言葉に対して、ある特定の意味を乗せて伝えることに早々と見切りをつけ、きわめて感覚的に言葉を使おうとする作家は、意外と多い。巷には活字による情報が溢れかえっており、携帯電話やPHSによる、声を切り売りするかのようなコミュニケーションが見慣れた風景となり、インターネットの爆発的な普及によって、一度も会ったことのないような人と、メールという手段によって軽々と言葉が行き来する現代、かつて言霊が宿るとさえ言われた言葉の価値は、もはや無きに等しいのかもしれない。コギャル語や顔文字とかいった新しい表現が次々と生まれている背景に、しょせん他人には自分のことなど正確に伝わるはずもない、という諦念に似た思いを感じるか、あるいは不完全な道具である言葉が、まったく新しい価値を生み出そうとしていると感じるか――本書を読んでみると、あるいはその答えが見つかるかもしれない。(1999.07.02)

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