【河出書房新社】
『豆腐屋の四季』
−松下竜一 その仕事1−

松下竜一著 

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 かつて、私は小説を創作することにすべてをかけてきた学生だった。やがて、小説を書くことが手段ではなく目的と化してしまっていることに気がつき、その他もろもろの事情も重なって、それ以来、小説創作からは遠ざかってしまったのだが、そのとき私は、漠然とではあったが、自分にはもの書きとして決定的な何かが欠落しているのではないか、と心のどこかで感じていたことを覚えている。

 今、本書『豆腐屋の四季』を読み終えて、私はあの頃の自分に欠けていたものが何だったのか、はっきりとわかったように思う。それは、けっして派手でも劇的でもない、地味な日々の生活を大切にしていこうとする心であり、そんな生活を営む自分というものを、ありのままに受け止めて生きていこうという姿勢である。あるいはそれは、覚悟と言い換えてもいいかもしれない。なぜなら、どのようなジャンルにしろ、創作という行為は自分自身と向き合うことであり、そのためにはまず、まぎれもない現実を生きる自分がどれほどのものなのか、常に問いかけつづける必要があるからだ。自分の人生をどう生きていくべきなのか――そこから逃げているあいだは、真の創作、真の文芸というものはけっしてその人の内に芽生えることはないのである。

 本書の著者である松下竜一は、豆腐屋を営む青年である。老いた父親と、内気でか弱い妻の3人で細々と生計をたてている零細豆腐屋で、著者は毎日夜中の2時3時に起き出して、労力を惜しまず豆腐を手作りし、朝の配達に出かけていく。どんなに体調の悪い日でも豆腐作りに精を出し、どんなに天候の悪い日でも配達を欠かそうとしない――けっして楽な仕事ではない。だが、そこには職人気質とも言うべき著者の、豆腐づくりを中心に動いていく、まぎれもない日々の生活がある。そして、そんな日々の生活から見えてくるものを、著者は和歌にして詠んでいく。本書はそんな、ごく平凡な豆腐屋の1年の様子、黙々とつづく労働の日々を、多くの創作和歌とともに綴った、地味ではあるがまぎれもないひとつの文芸として完成した作品だと言うことができるだろう。

 ボイラーに供えし盃の御神酒乾し豆腐しぞめの真夜の火点じぬ
 豆腐五十ぶちまけ倒れし暁闇を茫然と雪にまみれて帰る
 睫毛まで今朝は濡れつつ豆腐売るつつじ咲く頃霧多き街
 豆乳の湯気が包めば真夜ながら豆腐する我が裸体汗噴く
 ひと夜経しあぶらげの肌冷えびえと商う我に秋は来にけり

「豆腐屋の四季」という何気ないタイトルが、じつは本書の本質を鋭く表現しているという事実に、おそらく私たちはすぐに気がつくだろう。それだけ、本書に載せられている和歌に込められている季節感が圧倒的だということであり、それはまた、豆腐屋という稼業を通じてしか感じとることのできない季節感でもある。本書の和歌を評している、朝日歌壇の先生たちも語るように、けっして技巧的なわけではない著者の和歌は、とにかくまっすぐなのだ。そのまっすぐさは、そのまま著者の、周囲の自然に向ける視線、そしておのれ自身へと向けられる視線の素直さの表われなのだろう。私はそのときの情景をありありと思い浮かべ、素直に感じ入ることができる。そしてそんな著者の素直さは、ときに鋭さをともなって本書の文中に差し挟まれる情景描写にも生きてくる。昨今の季節感の乏しい文芸作品など相手にもならないほど、巧みなその短い一文が、よりいっそう本書全体を引き締め、透明にしていくようにさえ思えてくる。

 私もかつて、文章を書こうと志した身であるゆえにわかるのだが、人は究極的に、偽りの文章を書くことはできないものだ。自分の知らないことを、さも知っているかのように書いたり、本当は自分で理解していないような事柄を書いたとしても、どうしてもその表現は不自然な感じがにじみ出てしまうものである。おそらく、誰もがまだ寝入っているであろう夜半からはじまる、たったひとりの仕込み作業――その孤独な時間は、著者の心そのものだ。済みきった夜空のように美しいのに、どこか寂しくて、哀しい。

 母の死後、著者の家族はバラバラの状態で、ひどく貧しい生活のなか、みじめさを叩きつけるかのような怒りのなかから歌が生まれたと、本書にはある。生活すること、生きていくことの労苦の重さに押しつぶされようとしながらも、そこから這い上がり、一族そろって立ち上がっていこうとするたくましさ、そしてどんなに科学が発達し、便利な世の中になっても、あくまで手作りの豆腐にこだわりつづけようとする不器用なまでの頑固さは、さながら夢枕獏の『神々の山嶺』に登場するクライマー羽生丈二の孤高を思わせるものがある。

 労働というのは本来、けっして楽なものではないのだ。そして、自らの手で何かを生み出すという行為のなかからこそ、輝かしい何かが生まれてくるのだ、という確信を本書は与えてくれる。著者の短歌は美しく、どこか脆くて儚く、だからこそいとおしくもある。それはまるで、ちょっとした衝撃で脆くも崩れてしまう、純白の豆腐にも似ている、と言っては言いすぎだろうか。

 私は発展などなくてもいいから、自分の日々を誠実に生きて、せめてその狭い世界の中だけでも懸命に愛を深めたいのだ。私の歌は、その愛の過程でおのずから生まれるはずだ。自分の仕事を愛することで、豆腐の歌は限りなく生まれてくるだろうし、妻をいとおしむことで愛の賛歌は泉のように湧きくるはずだ。

 日々の労働でくたくたになり、あくせく働くことをえんえんと繰り返す人間の生活――私もまた、社会人のひとりとして会社に勤める身であるが、最近つくづく思うのは、仕事以外の時間を見つけ出すことの困難さである。生きるというのは、こんなにも哀しいものなのか、と思う。だが、同時にこうも思うのだ。生きるというのは、こんなにもいとおしいものなのか、と。

 一度手放してしまったものを、もう一度取り戻すことは難しい。社会人となり、ホームページで他人の書いた本を書評するようになった私だが、もしもう一度創作をはじめることができたとしたら、いったいどんな作品を生み出すことができるだろうか、とふと思うことがある。まぎれもない生活のなかから生まれてくる、輝くものの姿――本書のなかに溢れている輝きを、ぜひとも感じとってもらいたい。(2002.08.08)

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